徒然日記 - プライベートカテゴリのエントリ

久しぶりに土曜のランチを料理。妻と息子の分を入れて3人分。
ストッカーに「日清ラ王 醤油」があったので、野菜系をトッピングしたラーメンを作ることにして冷蔵庫を覗いたら、ハムみたいなチャーシューをスライスしたやつと賞味期限の近いキムチが入っていて、野菜室にキャベツがあったので、まずはフライパンでチャーシューとキャベツのキムチ炒めを作りました。
平行して、ゆで卵を8分茹でで。半熟よりやや完熟寄りの茹で加減にしたかったので。
鍋に湯を沸かしてラ王の麺を投入したら、付属のスープを丼にあけ、麺の茹で上がり直前に熱湯で伸ばして、茹で上がった麺を泳がせます。
その上から、チャーシューとキャベツのキムチ炒めと2つに切った茹で玉子をのせ、刻みネギを散らしたら出来上がり!
冬の寒い日には、唐辛子のピリッとした辛さと、キムチの複雑な旨味が加わったこういうラーメンがいいですね。
ブログ書くの久しぶり。
何かと忙しくて、気がついたら、3ヶ月近くも開いてしまってました。反省。
さて、宮崎単身赴任中は「日曜拉麺」シリーズを書いていたんですが、東京(千葉)に戻ってからは、日曜が仕事で週休日は火曜と土曜となり、家でラーメン作るのは専ら土曜なので、これからは「土曜拉麺」シリーズに衣替えですね。

今日は、妻が息子を連れて訓練に出かけたので、帰ってくるまでに昼食の準備しておこうと冷蔵庫を覗いたら、豚ミンチが中途半端に残ってました。
これを使わない手は無いので、玉ねぎをみじんに刻んで、ニンニクと生姜もみじん切りにして、オリーブオイルを熱したフライパンへ。

玉ねぎがきつね色に炒まったら、豚ミンチを加えて炒め、味噌、みりん、砂糖、日本酒にラー油と柚子胡椒を加えて肉味噌を作ります。
分量は適当なんですが、玉ねぎ半分に豚ミンチ100g、ニンニクとしょうがはひとかけ、味噌大さじ2、みりん大さじ1、砂糖小さじ2、日本酒大さじ1、ラー油小さじ1/2、柚子胡椒小さじ1くらいだったかな。
調味料は少なめに入れて、途中でちょっと味見して、足りなければ加えてあげる感じにしておけば、濃すぎて失敗ということはありません。
肉味噌完成したら、野菜の準備。
細めの長ネギが冷蔵庫にあったので、細かく1本を刻みました。
それから、使いかけのカット野菜も冷蔵庫で発見したので、これも使いましょう。
続いて、麺を茹でます。大きめの鍋で3人分をまとめて。
今回使ったのは、「日清ラ王 醤油」。我が家の定番ストック袋麺です。
付属のスープのは、丼に入れておいて、別途湧かしておいた熱湯で、麺が茹で上がる30秒前くらいに伸ばしておきます。
麺が茹で上がったらざるでしっかり湯切りして、小分けしながら丼のスープのなかに泳がせます。

麺を投入したら、カット野菜を盛り、その上に作っておいたピリ辛肉味噌を載せ、周囲に刻んだネギを散らして出来上がり!
肉味噌を崩しながらいただくと、ベースの醤油味のスープに味噌や肉のうま味が加わり、ピリ辛の刺激が食欲をほどよく増進させてくれます。
一気に完食して、心と体もぽっかぽか。
今回も我ながら上出来の一杯となりました!
何かと忙しくて、気がついたら、3ヶ月近くも開いてしまってました。反省。
さて、宮崎単身赴任中は「日曜拉麺」シリーズを書いていたんですが、東京(千葉)に戻ってからは、日曜が仕事で週休日は火曜と土曜となり、家でラーメン作るのは専ら土曜なので、これからは「土曜拉麺」シリーズに衣替えですね。

今日は、妻が息子を連れて訓練に出かけたので、帰ってくるまでに昼食の準備しておこうと冷蔵庫を覗いたら、豚ミンチが中途半端に残ってました。
これを使わない手は無いので、玉ねぎをみじんに刻んで、ニンニクと生姜もみじん切りにして、オリーブオイルを熱したフライパンへ。

玉ねぎがきつね色に炒まったら、豚ミンチを加えて炒め、味噌、みりん、砂糖、日本酒にラー油と柚子胡椒を加えて肉味噌を作ります。
分量は適当なんですが、玉ねぎ半分に豚ミンチ100g、ニンニクとしょうがはひとかけ、味噌大さじ2、みりん大さじ1、砂糖小さじ2、日本酒大さじ1、ラー油小さじ1/2、柚子胡椒小さじ1くらいだったかな。
調味料は少なめに入れて、途中でちょっと味見して、足りなければ加えてあげる感じにしておけば、濃すぎて失敗ということはありません。
肉味噌完成したら、野菜の準備。
細めの長ネギが冷蔵庫にあったので、細かく1本を刻みました。
それから、使いかけのカット野菜も冷蔵庫で発見したので、これも使いましょう。
続いて、麺を茹でます。大きめの鍋で3人分をまとめて。
今回使ったのは、「日清ラ王 醤油」。我が家の定番ストック袋麺です。
付属のスープのは、丼に入れておいて、別途湧かしておいた熱湯で、麺が茹で上がる30秒前くらいに伸ばしておきます。
麺が茹で上がったらざるでしっかり湯切りして、小分けしながら丼のスープのなかに泳がせます。

麺を投入したら、カット野菜を盛り、その上に作っておいたピリ辛肉味噌を載せ、周囲に刻んだネギを散らして出来上がり!
肉味噌を崩しながらいただくと、ベースの醤油味のスープに味噌や肉のうま味が加わり、ピリ辛の刺激が食欲をほどよく増進させてくれます。
一気に完食して、心と体もぽっかぽか。
今回も我ながら上出来の一杯となりました!
前稿の公開後、これまた我が焼酎の師の一人、小田原在住の稲葉さんから、下記のとおり新たな情報をいただきました。
「私は、焼酎が夏の季語になったのは、江戸時代における『本直し』の位置付けによるものではないかと理解してきました。
本直しは、みりんに焼酎を割ったもので、江戸時代には暑気ばらいの代表的な飲みものとして認識されていました。」
『本直し』、またまた私にとって未知の言葉が出てきましたが、なかなか興味深い内容なので、調べてみることにしました。
まずは、Googleで「本直し みりん」で検索かけてみると、Wikipediaを筆頭に、みりん屋さんのサイト、日本酒の蔵元のサイト、食文化関係のサイトなどいろいろと出てきますので、ざっと見て概要をおさらい。
「本直し」は、「柳蔭」とも呼ばれていたことがわかりましたが、俳句の世界で「柳陰」という言葉は、春の季語になっています。
上方落語の「青菜」という演目に「柳蔭」が登場するというので、まずは「青菜」を聞いてみることにしました。
YouTubeで探すと、いろんな噺家さんが演じてらっしゃいますが、まずは故・五代目柳家小さんから。
旦那さんが植木屋さんに振る舞うのが、大阪の友人からいただいた「柳蔭」で、江戸っ子の植木屋さんは「これは『直し』というものでは?」と問うやり取りが、冒頭の部分で語られます。
もともとこの演目、上方落語のものということなので、大阪の噺家を代表して、私の大好きな噺家で若くして亡くなった、故・2代目桂枝雀のものも聞いてみましょう。
枝雀45歳、最盛期の語り口、最高ですね。
「柳蔭」は、暑い盛りに暑気払いとして井戸で冷たく冷やして飲むもので、みりんが入っているということがわかります。
みりんは元々、蒸したもち米に米麹を混ぜ、焼酎を加えて熟成させ、圧搾、濾過して造られたもので、アルコール度数14%前後の甘みの強い飲料として親しまれていました。
それが、次第に料理に用いられるようになって、今では調味料としての用途の方が主流になっていますが、本みりんを実際に飲んでみると、なかなかに美味しく、その甘い飲み口は、食前酒などに向いているのではないかと思います。
ただ、さすがに糖度が高くたくさんは飲めないので、これに焼酎を加えて糖度を下げて飲みやすくした「柳蔭」や「本直し(直し)」が、江戸時代には庶民の間でも飲まれていたということなのでしょう。
調査を進めて行くと、江戸時代末期の文化7(1810)年に大坂で生まれた喜田川守貞(季荘)が著した近世風俗書『守貞謾稿』に、本直しが夏に飲まれていたという記述があるらしいことがわかったので、またもや国立国会図書館のデジタルコレクションのお世話になって、『守貞謾稿』を片っ端からめくってみました。

すると、最後の方の『守貞謾稿. 後集巻1』の18コマ目のところに、
「京坂夏月には夏銘酒柳蔭と云ふを専用す
江戸は本直しと号し味琳と焼酎を大略これを半ばに合わせ用ふ
「ホンナホシ」「ヤナギカケ」、ともに冷酒にて飲むなり」
と書かれている部分を発見しました。
確かに江戸時代末期には、「柳蔭」あるいは「本直し」が、夏の暑い時期に冷やして飲まれていたことは確かなようです。
この記述に続いて、「焼酎」についての記載があり、そこには、
「酒粕に籾を交へ蒸し」
とあって、当時の焼酎が前稿(下)で與さんに教えていただいた粕取焼酎であったことがわかります。
夏の時季に飲まれていたのは、「焼酎」が先なのか、「柳蔭(本直し)」が先なのかはよくわかりませんが、製造の歴史からすると、やはり「粕取焼酎」が季語の元になったという説の方が有力ではないかと思われます。

それはさておき、未知なる「柳蔭(本直し)」は、一度飲んでおかねばなりません。
本味醂と粕取焼酎を購入して、自分で半々に割って作る手もありますが、それだだと高くつきそうだったので、白扇酒造さんのサイトで、製品として出されている『柳蔭』を購入してみました。
この白扇酒造さん、本みりんも造られている醸造会社なので、間違いないでしょう。

後日届いた『柳蔭』を冷蔵庫でよく冷やして飲んでみると、すっきりとした甘さで口当たりが良く、グビグビと飲めてしまいます。
日本酒とも焼酎とも違う味わいですが、ストレートで飲ると、アルコール度数が20度もありますので、早々に酔っ払ってしまいそうです。
確かに、暑い夏の夕方に、食前酒として飲むには良さそうです。
これでまた、酒の世界の知見が広がりました。
稲葉さん、ご教示ありがとうございました。
「私は、焼酎が夏の季語になったのは、江戸時代における『本直し』の位置付けによるものではないかと理解してきました。
本直しは、みりんに焼酎を割ったもので、江戸時代には暑気ばらいの代表的な飲みものとして認識されていました。」
『本直し』、またまた私にとって未知の言葉が出てきましたが、なかなか興味深い内容なので、調べてみることにしました。
まずは、Googleで「本直し みりん」で検索かけてみると、Wikipediaを筆頭に、みりん屋さんのサイト、日本酒の蔵元のサイト、食文化関係のサイトなどいろいろと出てきますので、ざっと見て概要をおさらい。
「本直し」は、「柳蔭」とも呼ばれていたことがわかりましたが、俳句の世界で「柳陰」という言葉は、春の季語になっています。
上方落語の「青菜」という演目に「柳蔭」が登場するというので、まずは「青菜」を聞いてみることにしました。
YouTubeで探すと、いろんな噺家さんが演じてらっしゃいますが、まずは故・五代目柳家小さんから。
旦那さんが植木屋さんに振る舞うのが、大阪の友人からいただいた「柳蔭」で、江戸っ子の植木屋さんは「これは『直し』というものでは?」と問うやり取りが、冒頭の部分で語られます。
もともとこの演目、上方落語のものということなので、大阪の噺家を代表して、私の大好きな噺家で若くして亡くなった、故・2代目桂枝雀のものも聞いてみましょう。
枝雀45歳、最盛期の語り口、最高ですね。
「柳蔭」は、暑い盛りに暑気払いとして井戸で冷たく冷やして飲むもので、みりんが入っているということがわかります。
みりんは元々、蒸したもち米に米麹を混ぜ、焼酎を加えて熟成させ、圧搾、濾過して造られたもので、アルコール度数14%前後の甘みの強い飲料として親しまれていました。
それが、次第に料理に用いられるようになって、今では調味料としての用途の方が主流になっていますが、本みりんを実際に飲んでみると、なかなかに美味しく、その甘い飲み口は、食前酒などに向いているのではないかと思います。
ただ、さすがに糖度が高くたくさんは飲めないので、これに焼酎を加えて糖度を下げて飲みやすくした「柳蔭」や「本直し(直し)」が、江戸時代には庶民の間でも飲まれていたということなのでしょう。
調査を進めて行くと、江戸時代末期の文化7(1810)年に大坂で生まれた喜田川守貞(季荘)が著した近世風俗書『守貞謾稿』に、本直しが夏に飲まれていたという記述があるらしいことがわかったので、またもや国立国会図書館のデジタルコレクションのお世話になって、『守貞謾稿』を片っ端からめくってみました。

すると、最後の方の『守貞謾稿. 後集巻1』の18コマ目のところに、
「京坂夏月には夏銘酒柳蔭と云ふを専用す
江戸は本直しと号し味琳と焼酎を大略これを半ばに合わせ用ふ
「ホンナホシ」「ヤナギカケ」、ともに冷酒にて飲むなり」
と書かれている部分を発見しました。
確かに江戸時代末期には、「柳蔭」あるいは「本直し」が、夏の暑い時期に冷やして飲まれていたことは確かなようです。
この記述に続いて、「焼酎」についての記載があり、そこには、
「酒粕に籾を交へ蒸し」
とあって、当時の焼酎が前稿(下)で與さんに教えていただいた粕取焼酎であったことがわかります。
夏の時季に飲まれていたのは、「焼酎」が先なのか、「柳蔭(本直し)」が先なのかはよくわかりませんが、製造の歴史からすると、やはり「粕取焼酎」が季語の元になったという説の方が有力ではないかと思われます。

それはさておき、未知なる「柳蔭(本直し)」は、一度飲んでおかねばなりません。
本味醂と粕取焼酎を購入して、自分で半々に割って作る手もありますが、それだだと高くつきそうだったので、白扇酒造さんのサイトで、製品として出されている『柳蔭』を購入してみました。
この白扇酒造さん、本みりんも造られている醸造会社なので、間違いないでしょう。

後日届いた『柳蔭』を冷蔵庫でよく冷やして飲んでみると、すっきりとした甘さで口当たりが良く、グビグビと飲めてしまいます。
日本酒とも焼酎とも違う味わいですが、ストレートで飲ると、アルコール度数が20度もありますので、早々に酔っ払ってしまいそうです。
確かに、暑い夏の夕方に、食前酒として飲むには良さそうです。
これでまた、酒の世界の知見が広がりました。
稲葉さん、ご教示ありがとうございました。
上から続く。
「和漢三才図会」があてにならないとわかって、それでは何故、「焼酎」が夏の季語となったのかを調べるため、リニューアルしたばかりの浦安市立図書館中央館に行って、季語事典みたいな本を片っ端からめくってみました。
しかし、「焼酎」について記載のある本の中でも、「暑気払いとして飲まれている」程度のことしか書かれておらず、大した成果は得られませんでした。
そこに、我が焼酎の師の一人、宮崎市在住の與さんから、
「季語の焼酎っておそらく清酒圏における粕取り焼酎なのかもしれないですね。根拠はありませんw。
一部の農村部で粕取りを盛んに飲むのがサナブリから夏にかけてなんですよね。論拠はそれだけですw。」
と、耳寄りな情報が届きました。
詳しくは、與さんの書かれた「Dr.けんじの粕取焼酎概論」という素晴らしい論考をお読みいただければと思いますが、清酒粕を蒸留して造る「粕取焼酎」は、特に福岡県の北九州地方のものが名高く、「早苗饗(さなぶり)焼酎」と呼ばれて、田植えを終えた後の祝いの宴で振る舞われ、よく飲まれたということのようです。

宮崎では、今でこそ超早場米が主流で、多くの田植えは3月には終わってしまいますが、一般的に普通期米の田植えは5〜6月。まさに季節としては夏になります。
ちなみに、「早苗饗」も夏の季語のひとつです。
米から作られる日本酒を搾った後の酒粕には多くのアミノ酸が含まれており、肥料の原料として優秀ですが、そのままでは含まれるアルコール分が害になるので、蒸留してアルコール分を飛ばしてやる必要があります。
蒸留した後の下粕は冷まして米を作る田んぼの肥料に使い、その際にできる副産物を「粕取焼酎」として田の神に捧げ、自分たちでも飲むというのが、稲作農家で繰り返し行われてきたサイクルだったのでしょう。
もちろん、そうした粕取焼酎を飲むのは、田植えの後の「早苗饗」に限らず、そこを皮切りに、夏の間は労働後の暑気払いや様々な祝いの席などで飲まれたのでしょう。
明確に書かれた文献を見つけることはまだできていませんが、「焼酎」が夏の季語であるのは、そうした背景から来ているのではないかと想像できます。

そうなると、この落合酒造(宮崎市)の純米酒粕焼酎「残心14%」なども、「夏焼酎」の列に加えた方が良いのかもしれませんね。
「和漢三才図会」があてにならないとわかって、それでは何故、「焼酎」が夏の季語となったのかを調べるため、リニューアルしたばかりの浦安市立図書館中央館に行って、季語事典みたいな本を片っ端からめくってみました。
しかし、「焼酎」について記載のある本の中でも、「暑気払いとして飲まれている」程度のことしか書かれておらず、大した成果は得られませんでした。
そこに、我が焼酎の師の一人、宮崎市在住の與さんから、
「季語の焼酎っておそらく清酒圏における粕取り焼酎なのかもしれないですね。根拠はありませんw。
一部の農村部で粕取りを盛んに飲むのがサナブリから夏にかけてなんですよね。論拠はそれだけですw。」
と、耳寄りな情報が届きました。
詳しくは、與さんの書かれた「Dr.けんじの粕取焼酎概論」という素晴らしい論考をお読みいただければと思いますが、清酒粕を蒸留して造る「粕取焼酎」は、特に福岡県の北九州地方のものが名高く、「早苗饗(さなぶり)焼酎」と呼ばれて、田植えを終えた後の祝いの宴で振る舞われ、よく飲まれたということのようです。

宮崎では、今でこそ超早場米が主流で、多くの田植えは3月には終わってしまいますが、一般的に普通期米の田植えは5〜6月。まさに季節としては夏になります。
ちなみに、「早苗饗」も夏の季語のひとつです。
米から作られる日本酒を搾った後の酒粕には多くのアミノ酸が含まれており、肥料の原料として優秀ですが、そのままでは含まれるアルコール分が害になるので、蒸留してアルコール分を飛ばしてやる必要があります。
蒸留した後の下粕は冷まして米を作る田んぼの肥料に使い、その際にできる副産物を「粕取焼酎」として田の神に捧げ、自分たちでも飲むというのが、稲作農家で繰り返し行われてきたサイクルだったのでしょう。
もちろん、そうした粕取焼酎を飲むのは、田植えの後の「早苗饗」に限らず、そこを皮切りに、夏の間は労働後の暑気払いや様々な祝いの席などで飲まれたのでしょう。
明確に書かれた文献を見つけることはまだできていませんが、「焼酎」が夏の季語であるのは、そうした背景から来ているのではないかと想像できます。

そうなると、この落合酒造(宮崎市)の純米酒粕焼酎「残心14%」なども、「夏焼酎」の列に加えた方が良いのかもしれませんね。
テゲツー!で夏焼酎の記事を校正する必要があって、俳句の世界では「焼酎」が夏の季語とされているのは何故かが気になったので、調べてみることにしました。
とりあえずGoogleで「焼酎 夏の季語」をキーワードに検索かけると、
「江戸時代の百科事典『和漢三才図会』によると「気味はなはだ辛烈にして、疲れを消し、積聚を抑へて、よく湿を防ぐ」と書かれています。要するに夏の暑さに疲れた身体に活を入れ、精力をよみがえらせる酒と位置づけられていたのでしょう。」
みたいな記述があちこちに見られます。
検索結果に似たような記述が多くて多様性が無いのは、冷や汁の鎌倉時代起源説と似ていて、何か怪しい予感がしたので、原典の『和漢三才図会』を確認してみることにしました。
『和漢三才図会』は、国立国会図書館のデジタルコレクションに中金堂1888年版が収録されていて、上之巻、中之巻、下之巻、総目録の4巻に分かれています。
そこで、いろは順に並んだ総目録をめくって「焼酎」の項目がどこにあるかを探したところ、下之巻の1786頁にあることがわかったので、下之巻に移動して当該頁を探し出しました。

上記の画像(クリックすると別ウィンドウで大きな画像が表示されます)がその焼酎の頁ですが、当該部分は最後の方にあって、
「気味甚辛烈而消痞抑積聚能防濕」(返り点省略)
と記されています。
『角川大字源』や『広辞苑 第5版』などで個々の漢字の意味を調べてみると
「痞」は「つかえ」で、疲れではなくて、「腹中に塊のようなものがあって痛む病気。胸や心のふさがること。」という意味、
「積聚」は「しゃくじゅ」で「さしこみ。癇癪。」、
「濕」は「湿」の異体字で「しつ、とう、しゅう」などと読み「しめる。うるおう。うれえる。気を落とす。」などといった意味があります。
これらから察するに、
「焼酎は胸のつかえを消し、癇癪を押さえ、じめじめとした陰鬱な気分を防ぐ」
と解すべきで、気分を晴れやかにするものではあるけれど、「疲れを取る」とは読めないのではないかと考えます。
また、同じ焼酎の項の前の方に、
「北人四時飲之 南人止暑月飲之」(返り点省略)
と書かれていますが、これは、
「北人は四時(しじ)之を飲み、南人は止(ただ)暑月に之を飲む」
と読み、
「北の方の人は一年中これ(焼酎)を飲んでいるが、南の方の人は暑い季節だけこれを飲む」
と解せます。
日本では、焼酎は専ら九州以南の飲み物なので、何か変だなと思って更に調べていたら、中国の明時代の文献『本草綱目』(1593年上梓)の「焼酒」の綱目に同様に
「北人四時飲之 南人止暑月飲之」
という記述があることがわかりました。
中国で焼酒とも呼ばれる白酒などの蒸留酒は、主に東北部で愛飲されているので、中国のことと考えれば整合が取れます。

念のため、『本草綱目』第25巻の原本を国立国会図書館のデジタルコレクションで確認してみましたが、どうも、『和漢三才図会』の焼酎の項目は、『本草綱目』のそれを殆どそのまま引き写しているようです。
ということで、焼酎が夏の季語であることの理由付けに『和漢三才図会』を持って来るのは、少し無理があるようです。
誰かが間違った解釈で書いた物がインターネットに乗り、以降、特に検証もされずに引用、孫引きを繰り返されているようです。
皆様、ご注意あれ。
この話、長くなるので2回に分けます。
(下)へ続く。
とりあえずGoogleで「焼酎 夏の季語」をキーワードに検索かけると、
「江戸時代の百科事典『和漢三才図会』によると「気味はなはだ辛烈にして、疲れを消し、積聚を抑へて、よく湿を防ぐ」と書かれています。要するに夏の暑さに疲れた身体に活を入れ、精力をよみがえらせる酒と位置づけられていたのでしょう。」
みたいな記述があちこちに見られます。
検索結果に似たような記述が多くて多様性が無いのは、冷や汁の鎌倉時代起源説と似ていて、何か怪しい予感がしたので、原典の『和漢三才図会』を確認してみることにしました。
『和漢三才図会』は、国立国会図書館のデジタルコレクションに中金堂1888年版が収録されていて、上之巻、中之巻、下之巻、総目録の4巻に分かれています。
そこで、いろは順に並んだ総目録をめくって「焼酎」の項目がどこにあるかを探したところ、下之巻の1786頁にあることがわかったので、下之巻に移動して当該頁を探し出しました。

上記の画像(クリックすると別ウィンドウで大きな画像が表示されます)がその焼酎の頁ですが、当該部分は最後の方にあって、
「気味甚辛烈而消痞抑積聚能防濕」(返り点省略)
と記されています。
『角川大字源』や『広辞苑 第5版』などで個々の漢字の意味を調べてみると
「痞」は「つかえ」で、疲れではなくて、「腹中に塊のようなものがあって痛む病気。胸や心のふさがること。」という意味、
「積聚」は「しゃくじゅ」で「さしこみ。癇癪。」、
「濕」は「湿」の異体字で「しつ、とう、しゅう」などと読み「しめる。うるおう。うれえる。気を落とす。」などといった意味があります。
これらから察するに、
「焼酎は胸のつかえを消し、癇癪を押さえ、じめじめとした陰鬱な気分を防ぐ」
と解すべきで、気分を晴れやかにするものではあるけれど、「疲れを取る」とは読めないのではないかと考えます。
また、同じ焼酎の項の前の方に、
「北人四時飲之 南人止暑月飲之」(返り点省略)
と書かれていますが、これは、
「北人は四時(しじ)之を飲み、南人は止(ただ)暑月に之を飲む」
と読み、
「北の方の人は一年中これ(焼酎)を飲んでいるが、南の方の人は暑い季節だけこれを飲む」
と解せます。
日本では、焼酎は専ら九州以南の飲み物なので、何か変だなと思って更に調べていたら、中国の明時代の文献『本草綱目』(1593年上梓)の「焼酒」の綱目に同様に
「北人四時飲之 南人止暑月飲之」
という記述があることがわかりました。
中国で焼酒とも呼ばれる白酒などの蒸留酒は、主に東北部で愛飲されているので、中国のことと考えれば整合が取れます。

念のため、『本草綱目』第25巻の原本を国立国会図書館のデジタルコレクションで確認してみましたが、どうも、『和漢三才図会』の焼酎の項目は、『本草綱目』のそれを殆どそのまま引き写しているようです。
ということで、焼酎が夏の季語であることの理由付けに『和漢三才図会』を持って来るのは、少し無理があるようです。
誰かが間違った解釈で書いた物がインターネットに乗り、以降、特に検証もされずに引用、孫引きを繰り返されているようです。
皆様、ご注意あれ。
この話、長くなるので2回に分けます。
(下)へ続く。
今回、宮崎から浦安に引っ越すに当たって、いろんな物を手放してきました。
中には、長年付き合ってきたものも多く、手放すのに忍びないものもあったので、思い出代わりに書いておきます。
まずは、片手の中華鍋(北京鍋)。
大学2年の時に大阪の道具屋筋にある専門店までわざわざ買いに行ったもので、一口のガスコンロだけの台所だった大学時代は、炒める、焼く、煮る、蒸すと万能の中華鍋一つでたいがいの料理は作ってました。
その後も炒飯など中華料理を作るのに欠かせない道具として、ずっと愛用してきて、結婚式の披露宴の時も、舞台上でこの中華鍋で炒飯を作ったのでした。
しかし、浦安のマンションはオール電化で丸底の中華鍋が使えないので、泣く泣く手放すことにして、他の調理道具と一緒に譲ってきました。

2006年4月から乗ってきたクロスバイク(SPECIALIZED CROSSRIDER XC SPORT)も、調理道具と一緒に譲ったもののひとつ。
オリジナルから28cのタイヤに替え、2016年にオーバーホールしたりして、大事に乗ってきました。
宮崎での単身赴任時代は、これで椿山を越えて日南市北郷に抜け、そのまま日南海岸を北上したり、夏の暑い時期にひまわり畑を取材に高鍋まで行ったりしたのは良き思い出です。
今回、引っ越しは段ボール箱に詰めて送れるものだけにしたのと、そろそろ次の自転車にしても良いかなと思って、譲ることにしたのでした。
今回断捨離したもので、最も長くお付き合いしたものとは、日本図書館協会の会員ですね。
大学に入ってすぐ、18歳の時に個人会員となり、実際に図書館員として勤務したのは3年間だけなのですが、この3月まで40年間、会費を納め続けてきました。
40年というひとつの区切りを迎えて、これまで会員としての権利はほとんど享受して来なかったし、もう今さら仕事で図書館と関わることも無さそうなので、良い頃合いだと思うことにしました。
協会の会員でなくなっても、図書館司書であることが自分のバックボーンであることは変わりませんし。
もうひとつ、ほぼ同じ期間つきあってきたのが、小学館発行の雑誌『BE-PAL』.
アウトドアのバイブルとして、1981年の創刊号から欠かさず買ってきましたが、さすがにアウトドア自体が縁遠くなってきたのと、読むワクワク感が薄れてきたの感じてきたので、思い切って定期購読を止めることにしました。
ギアのカタログとしては、代替するWebメディアが増えていることも、止める決断を後押ししました。
気に入った記事は、スキャナで読み込んでアーカイブしてあるので、その蓄積でこれからもなんとかなりそうではありますし。
しかし、デジタルアーカイブしても、読み返すことは殆ど無いんですよね。単なる安心感でそうしてることも多いのですが、たまに10年くらい経って役立つこともあるから止められない。
なんか、長年付き合ってきたものと別れるのは、一抹の寂しさもあるのですが、いつまでも抱えきれませんし、年齢的にとっくに人生の折り返し地点は過ぎているので、必然的に終活を意識しなければならなくなり、これからも捨てるものの方が増えるのでしょう。
それでも、まだまだ捨てきらないものも多くて、浦安の部屋はなかなか片付かないままです。
中には、長年付き合ってきたものも多く、手放すのに忍びないものもあったので、思い出代わりに書いておきます。
まずは、片手の中華鍋(北京鍋)。
大学2年の時に大阪の道具屋筋にある専門店までわざわざ買いに行ったもので、一口のガスコンロだけの台所だった大学時代は、炒める、焼く、煮る、蒸すと万能の中華鍋一つでたいがいの料理は作ってました。
その後も炒飯など中華料理を作るのに欠かせない道具として、ずっと愛用してきて、結婚式の披露宴の時も、舞台上でこの中華鍋で炒飯を作ったのでした。
しかし、浦安のマンションはオール電化で丸底の中華鍋が使えないので、泣く泣く手放すことにして、他の調理道具と一緒に譲ってきました。

2006年4月から乗ってきたクロスバイク(SPECIALIZED CROSSRIDER XC SPORT)も、調理道具と一緒に譲ったもののひとつ。
オリジナルから28cのタイヤに替え、2016年にオーバーホールしたりして、大事に乗ってきました。
宮崎での単身赴任時代は、これで椿山を越えて日南市北郷に抜け、そのまま日南海岸を北上したり、夏の暑い時期にひまわり畑を取材に高鍋まで行ったりしたのは良き思い出です。
今回、引っ越しは段ボール箱に詰めて送れるものだけにしたのと、そろそろ次の自転車にしても良いかなと思って、譲ることにしたのでした。
今回断捨離したもので、最も長くお付き合いしたものとは、日本図書館協会の会員ですね。
大学に入ってすぐ、18歳の時に個人会員となり、実際に図書館員として勤務したのは3年間だけなのですが、この3月まで40年間、会費を納め続けてきました。
40年というひとつの区切りを迎えて、これまで会員としての権利はほとんど享受して来なかったし、もう今さら仕事で図書館と関わることも無さそうなので、良い頃合いだと思うことにしました。
協会の会員でなくなっても、図書館司書であることが自分のバックボーンであることは変わりませんし。
もうひとつ、ほぼ同じ期間つきあってきたのが、小学館発行の雑誌『BE-PAL』.
アウトドアのバイブルとして、1981年の創刊号から欠かさず買ってきましたが、さすがにアウトドア自体が縁遠くなってきたのと、読むワクワク感が薄れてきたの感じてきたので、思い切って定期購読を止めることにしました。
ギアのカタログとしては、代替するWebメディアが増えていることも、止める決断を後押ししました。
気に入った記事は、スキャナで読み込んでアーカイブしてあるので、その蓄積でこれからもなんとかなりそうではありますし。
しかし、デジタルアーカイブしても、読み返すことは殆ど無いんですよね。単なる安心感でそうしてることも多いのですが、たまに10年くらい経って役立つこともあるから止められない。
なんか、長年付き合ってきたものと別れるのは、一抹の寂しさもあるのですが、いつまでも抱えきれませんし、年齢的にとっくに人生の折り返し地点は過ぎているので、必然的に終活を意識しなければならなくなり、これからも捨てるものの方が増えるのでしょう。
それでも、まだまだ捨てきらないものも多くて、浦安の部屋はなかなか片付かないままです。

7色の冷や汁プロジェクトのひとつ、「黒の冷や汁 (Hiyashiru di Nero)」。
以前一度、冷や汁の素を使って試作したことがあるのですが、色の出方がいまいちだったので、再度トライしてみることにしました。
ベースに使った材料は、上の写真のとおり。
黒豆の味噌、粉末いりこ、粉末しいたけは、新宿みやざき館KONNEで購入。
黒胡麻も売ってましたが、今回は、黒胡麻のすりごまとペーストを別途用意しました。

土曜日の昼食として作ったので、分量は3人前です。
まず、黒のすりごま15gを擂り鉢で更に擂り、黒豆の味噌60gと、粉末いりこを20g投入。

さらに、粉末しいたけを10g加えて、よく練り合わせます。

粉末が多いので最初はぼそぼそしてますが、ゴムべらなどを使って根気よく混ぜていくと、耳たぶくらいの硬さにまとまってくるので、全体を薄く広げます。
全体が黒っぽくてなかなか良いですね。

広がったら、バーナーで炙ります。
擂り鉢を逆さにしてガスレンジの火で炙る方法もありますが、粘度が低いと剥がれ落ちて悲惨なことになるので、バーナー使う方が安全です。
我が家はオール電化なので、これしか方法が無いのですが。
強い炎でやると表面が一気に焦げてしまう可能性があるので、出力調整できるバーナーなら、弱めの火でじっくり炙る方が良いです。
ただ、擂り鉢も熱くなりますので、火傷にはご注意を。

表面に軽く焦げ目がついたら、冷や汁の素の完成。
たくさん作ったら、小分けして冷凍しておけば、いつでも冷や汁が食べられます。

続いて、溶いて汁にする作業に入ります。
まず、100ccの熱湯を少しずつ加えて溶いていきます。
いっぺんに入れるとだまになって溶けづらくなるので、少しずつ注いでは混ぜ、注いでは混ぜします。

お湯で溶き終わったら、今度は350ccの冷水で伸ばしていきます。
こちらも、様子も見ながら少しずつ入れて混ぜると良いでしょう。
これで、ベースは完成ですが、色がもう少し黒い方が良い気がします。

黒みを出すために、黒胡麻のペーストを大さじ1杯分加えました。
少し黒さが増しましたね。
これを冷蔵庫に入れて冷やしておきます。

汁を冷やしている間に、具材を用意します。
まず、木綿豆腐を適当な大きさに手でちぎって、水切りしておきます。
分量は、1人分80g前後。お好みで増減してください。
宮崎では、豆腐を入れない家庭もありますし、味噌と一緒に擂り混ぜるところもありますが、『宮崎県史 別編 民俗』によれば、「豆腐をいれるのが宮崎の冷や汁の特徴」とありますし、こうして木綿豆腐をほぐして入れるのが個人的には好みです。

野菜は、きゅうり、みょうが、大葉の3種類。
宮崎が日本一の生産量を誇るきゅうりは、身体を冷やす働きもあり、みょうがと大葉はともに食欲増進効果があるので、この3つは冷や汁の具材として外せません。
今回3人分で、きゅうり1本、みょうが4個、大葉8枚を使いましたが、分量はお好みで増減してください。

具材が用意できたら、あらかじめ冷やしておいた汁の中に投入して完成!
見た目は、思い通りに黒さが際だって、なかなか良い感じに出来ました。
やはり、わざわざ黒豆の味噌を使っただけのことはありますね。

出来上がったら、ご飯にかけて実食です。
今回のご飯は、もち麦を少し混ぜて炊きました。
もともと冷や汁は、麦飯を少しでも美味しく食べるためのものだったという説もあり、麦飯との相性は良いのですが、麦100%だとさすがに食べづらいので、2割ほど麦を入れるのが良さそうです。
今回の味の総評としては、いりこ感が少し強すぎたのと、塩味が少し足りないことを除けば、なかなか美味しくできました。
次回作るときは、黒豆の味噌を少し多めにして、いりこは少し控えたいと思います。
黒胡麻を使っても、味は普通の冷や汁と変わりませんが、白胡麻に比べて抗酸化作用のあるアントシアニンが多く含まれるので、ヘルシー度は上がります。
皆さんも一度お試しあれ!
「その10 セントーサ島〜虎豹別墅」から続く。
「虎豹別墅」を後にして、お土産のアーユルヴェーダ石けんを買うために、リトルインディアにある「ムスタファ・センター」に連れて行ってもらいました。
24時間オープンの巨大ショッピングセンターは、地下2階地上4階の広大な建物の中に、日本のドン・キホーテのように化粧品から日用雑貨、食料品まで無いものは無いのではと思えるくらいぎっしりと商品が詰め込まれていて、見て回るだけでもなかなか楽しいのですが、写真を撮る余裕は無かったので詳細は省略。
ここで買ったのは、アーユルヴェーダ石鹸を3種類に、肉骨茶(バクテー)の素3種、ドライ・イチジクなど。
なかなかリーズナブルにお買い物できました。

今回の旅で最後の食事となる夕食は、石田君に食べたいとリクエストしておいた「海南鶏飯」。
「シンガポール・チキンライス」とも呼ばれるように、これまたシンガポールを代表する料理のひとつ。
石田君のオススメは2か所あったのですが、「身がプリプリな方」をリクエストして連れてきてもらったのが、この「Kampong Chicken Eating House (甘榜山雉餐室)」。
地元民しか行かない感じの店構えで、期待が高まります。

店頭にKampong Chickenが吊されていて、ここでぶつ切りにしてくれて、テイクアウトも可能。
「Kampong」というのは、マレーシア語で「村」という意味だそうで、「Kampong Chicken」というのは、一般的にはマレーシアやインドネシアで放し飼いされている在来種の鷄を指すらしいのですが、村で育てられている鷄を指す場合もあるとのこと。
ここの鶏がどういう鶏なのかは聞きそびれましたが、黄色いのは、ターメリックを入れて茹でられているからみたいです。

店頭にメニューがありましたが、茹で鶏の外に、揚げ鶏、何故か蟹も看板メニューのようです。
外にもサイドディッシュがいろいろありましたが、今回は茹で鶏にフォーカス。

石田君と2人で、ハーフサイズ(半身)をシェアしました。
食べやすいように、包丁で骨ごとぶつ切りにされています。
これを、中国醤油とチリソースに付けながらいただきます。
適度な歯ごたえのあるプリッとした身質で、肉そのものにも旨味があって、なかなか美味しいです。
まる2日一緒にいて話題も尽きかけているので、「美味い」以外の言葉もほとんど無く、おっさん二人で骨付きの肉をひたすらしゃぶっていました(笑)。

チキンライスなので、ライスとスープも付けました。
鶏の出汁で炊かれたごはんと、鶏を茹でたスープですね。シンプルにして滋味深い味でした。
今回の旅で最後の食事で、念願だった本場の海南鶏飯を、しかもかなりレベルの高い鶏を食べることができて、大満足でした。
シンガポールを再訪することがあったら、ここは再度訪れたい場所です。
夕食が終わってその後、IONオーチャード店にある「Bengawan Solo(ブンガワン ソロ)」でクッキーなどのお菓子も買って、お土産の買い物は終了。
最後、石田君に車でチャンギ国際空港まで送ってもらって、空港の隣に新しくできたJewelというショッピングモールへ。
施設の中央にRain Voltexという屋根から地下まで円柱状に落ちる人工の滝があって、それがまたライトアップされて色が美しく変わって行きます。
よくこんなもの作ったなと、シンガポールの勢いに感心するばかり。
ここには、レストランもいろいろあるし、ブランド品のショップもあるし、お土産品も買えるしで、旅行者だけではなく、地元の人も多かったです。
しかし、広くて見所多いので、うかうかしてたら飛行機に乗り遅れる可能性がありますから要注意です。

石田君と別れ、0時30分発NH804便の搭乗まで少し時間があるので、免税店で自分用のお土産にグレンリベットのキャプテンズリザーブを1本買った後、Priority Passで入れるSATS Premiere Lounge T2へ。
ここは、アルコール類もひととおり揃っていて、セルフサービスで好きなだけ無料で飲めるようになっていました。
往路の機中であまり眠れなかったので、少し飲んでおくと眠れるかなと思って、とりあえず赤ワインを1杯いただくことに。
飲みながら、宮崎から持って来たけどここまで使わなかったPCを、Freeのwifiに繋いでメールをチェック。

このラウンジには軽食もあるのですが、夕食はしっかり食べた後でしたし、さすがに夜遅い時間帯でほとんど料理は残っていなかったので、ミックスナッツで白ワインをもう1杯。
そうこうしているうちに搭乗の時間が近づいてきたので、これで眠れると良いなと思いながら、ゲートへ向かいました。

NH804便に乗り込んだら、往路と同様に身支度を調えて寝ることに努めましたが、ワインの効果も無く、やはりあまり眠れませんでした。
到着2時間前くらいに前に出された機内食は、和食を選択。親子丼と冷やしうどんと果物。
往路は羽田からでしたが、復路は成田着。
成田空港は、宮崎からJetStarが飛んでいるのでたまに使うのですが、国際線で降り立つのは10年ぶりくらい。
出国同様に入国審査も自動化されていて、顔認証ゲートにパスポート置いてカメラに顔を向けたら照合されてゲートがさくっと開くというお手軽さ。
ゲートを抜けたらバゲッジクレームで預けた荷物を回収して、税関の申告品も無いのでそのまま到着ロビーへ。
そこから京成本線と東西線を乗り継いで浦安の自宅まで戻り、大半のお土産品を下ろしたら、再び電車で羽田空港へ。
夕方の便で羽田から宮崎に飛び、11月18日(月)の20時前にアパートに帰り着いて、1泊4日の弾丸ツアーが終了しました。
慌ただしい弾丸ツアーでしたが、満足度のものすごく高い旅になったのは、ひとえに案内してくれた石田良夫君のお陰です。濃密な2日間の最初から最後まで、大変にお世話になりました。改めて深謝します。
いつの間にか2ヶ月に渡り11回も連載することになってしまったシンガポール旅行記、以上で終了です。
自分の備忘録的にまとめましたが、誰かのシンガポール旅行の役に立てば幸いです。
MUSTAFA
「虎豹別墅」を後にして、お土産のアーユルヴェーダ石けんを買うために、リトルインディアにある「ムスタファ・センター」に連れて行ってもらいました。
24時間オープンの巨大ショッピングセンターは、地下2階地上4階の広大な建物の中に、日本のドン・キホーテのように化粧品から日用雑貨、食料品まで無いものは無いのではと思えるくらいぎっしりと商品が詰め込まれていて、見て回るだけでもなかなか楽しいのですが、写真を撮る余裕は無かったので詳細は省略。
ここで買ったのは、アーユルヴェーダ石鹸を3種類に、肉骨茶(バクテー)の素3種、ドライ・イチジクなど。
なかなかリーズナブルにお買い物できました。
Kampong Chicken Eating House (甘榜山雉餐室)

今回の旅で最後の食事となる夕食は、石田君に食べたいとリクエストしておいた「海南鶏飯」。
「シンガポール・チキンライス」とも呼ばれるように、これまたシンガポールを代表する料理のひとつ。
石田君のオススメは2か所あったのですが、「身がプリプリな方」をリクエストして連れてきてもらったのが、この「Kampong Chicken Eating House (甘榜山雉餐室)」。
地元民しか行かない感じの店構えで、期待が高まります。

店頭にKampong Chickenが吊されていて、ここでぶつ切りにしてくれて、テイクアウトも可能。
「Kampong」というのは、マレーシア語で「村」という意味だそうで、「Kampong Chicken」というのは、一般的にはマレーシアやインドネシアで放し飼いされている在来種の鷄を指すらしいのですが、村で育てられている鷄を指す場合もあるとのこと。
ここの鶏がどういう鶏なのかは聞きそびれましたが、黄色いのは、ターメリックを入れて茹でられているからみたいです。

店頭にメニューがありましたが、茹で鶏の外に、揚げ鶏、何故か蟹も看板メニューのようです。
外にもサイドディッシュがいろいろありましたが、今回は茹で鶏にフォーカス。

石田君と2人で、ハーフサイズ(半身)をシェアしました。
食べやすいように、包丁で骨ごとぶつ切りにされています。
これを、中国醤油とチリソースに付けながらいただきます。
適度な歯ごたえのあるプリッとした身質で、肉そのものにも旨味があって、なかなか美味しいです。
まる2日一緒にいて話題も尽きかけているので、「美味い」以外の言葉もほとんど無く、おっさん二人で骨付きの肉をひたすらしゃぶっていました(笑)。

チキンライスなので、ライスとスープも付けました。
鶏の出汁で炊かれたごはんと、鶏を茹でたスープですね。シンプルにして滋味深い味でした。
今回の旅で最後の食事で、念願だった本場の海南鶏飯を、しかもかなりレベルの高い鶏を食べることができて、大満足でした。
シンガポールを再訪することがあったら、ここは再度訪れたい場所です。
Jewel Changi Airport
夕食が終わってその後、IONオーチャード店にある「Bengawan Solo(ブンガワン ソロ)」でクッキーなどのお菓子も買って、お土産の買い物は終了。
最後、石田君に車でチャンギ国際空港まで送ってもらって、空港の隣に新しくできたJewelというショッピングモールへ。
施設の中央にRain Voltexという屋根から地下まで円柱状に落ちる人工の滝があって、それがまたライトアップされて色が美しく変わって行きます。
よくこんなもの作ったなと、シンガポールの勢いに感心するばかり。
ここには、レストランもいろいろあるし、ブランド品のショップもあるし、お土産品も買えるしで、旅行者だけではなく、地元の人も多かったです。
しかし、広くて見所多いので、うかうかしてたら飛行機に乗り遅れる可能性がありますから要注意です。
SATS Premiere Lounge T2

石田君と別れ、0時30分発NH804便の搭乗まで少し時間があるので、免税店で自分用のお土産にグレンリベットのキャプテンズリザーブを1本買った後、Priority Passで入れるSATS Premiere Lounge T2へ。
ここは、アルコール類もひととおり揃っていて、セルフサービスで好きなだけ無料で飲めるようになっていました。
往路の機中であまり眠れなかったので、少し飲んでおくと眠れるかなと思って、とりあえず赤ワインを1杯いただくことに。
飲みながら、宮崎から持って来たけどここまで使わなかったPCを、Freeのwifiに繋いでメールをチェック。

このラウンジには軽食もあるのですが、夕食はしっかり食べた後でしたし、さすがに夜遅い時間帯でほとんど料理は残っていなかったので、ミックスナッツで白ワインをもう1杯。
そうこうしているうちに搭乗の時間が近づいてきたので、これで眠れると良いなと思いながら、ゲートへ向かいました。
帰国

NH804便に乗り込んだら、往路と同様に身支度を調えて寝ることに努めましたが、ワインの効果も無く、やはりあまり眠れませんでした。
到着2時間前くらいに前に出された機内食は、和食を選択。親子丼と冷やしうどんと果物。
往路は羽田からでしたが、復路は成田着。
成田空港は、宮崎からJetStarが飛んでいるのでたまに使うのですが、国際線で降り立つのは10年ぶりくらい。
出国同様に入国審査も自動化されていて、顔認証ゲートにパスポート置いてカメラに顔を向けたら照合されてゲートがさくっと開くというお手軽さ。
ゲートを抜けたらバゲッジクレームで預けた荷物を回収して、税関の申告品も無いのでそのまま到着ロビーへ。
そこから京成本線と東西線を乗り継いで浦安の自宅まで戻り、大半のお土産品を下ろしたら、再び電車で羽田空港へ。
夕方の便で羽田から宮崎に飛び、11月18日(月)の20時前にアパートに帰り着いて、1泊4日の弾丸ツアーが終了しました。
慌ただしい弾丸ツアーでしたが、満足度のものすごく高い旅になったのは、ひとえに案内してくれた石田良夫君のお陰です。濃密な2日間の最初から最後まで、大変にお世話になりました。改めて深謝します。
いつの間にか2ヶ月に渡り11回も連載することになってしまったシンガポール旅行記、以上で終了です。
自分の備忘録的にまとめましたが、誰かのシンガポール旅行の役に立てば幸いです。
「その9 日本人墓地公園〜ラクサで昼食」から続く。
美味しいラクサをいただいた後、石田君の車は、シンガポール南部にあるレジャーアイランドのセントーサ島へ。

カジノやユニバーサルスタジオ、ゴルフ場、ビーチなど様々なエンターテイメント施設のあるセントーサ島ですが、石田君がまず案内してくれたのは、島の西端にある「FORT SILOSO (シロソ砦)」。

1880年代にイギリス軍がシンガポール港の防御のために築いた要塞で、1942年2月の日本軍との戦いで陥落した戦跡です。
現在は、当時の遺構を生かした「シロソ砦戦争記念館」として公開されています。
まず、駐車場の近くのスカイウォーク入口からエレベーターで上に上ります。

高い所が苦手という石田君の話によると、シンガポール人はスカイウォークが大好きで、いろんなところに無駄にスカイウォーク作るらしいのですが、上に昇ると、南側にはこんな光景が広がっていました。
沖合には、入港を待つ船がずらりと並んでいて、なかなかの壮観です。
何せシンガポール港は、コンテナ貨物取扱量で世界第2位の港(第1位は上海港(2018年))。
日本で1位は東京港(世界では35位(2018年))なのですが、その8倍、年間約3,660万TEUのコンテナを取り扱います。

同じ場所から反対側、シンガポール本島側を望むとこんな風景が。
豪華客船が停泊している奥に、本島からセントーサ島に渡るケーブルカーが見えます。

スカイウォークを奥へ進むと、シロソ砦の入口に到着。
広い敷地に点在する要塞の遺構を生かしながら、当時使われた大砲などが、人形などとともにリアルに展示されています。
場所によっては、人が近づくと自動的に音声が流れる仕掛けがほどこされていたりして、なかなか凝った展示になっていました。

こんな風に、対艦射撃用の6インチ砲と人形がリアルに配置してあったりする訳です。

これは、イギリス軍が使っていた9.2インチ砲の砲身。
こんなのがあちこちにごろごろしてましたが、ミリヲタでもないので、華麗にスルーしました。
日本軍の攻撃により陥落したこの要塞は、その後イギリス軍兵士の収容所として使われたりしたそうです。
日本の戦争遺構って、殆ど手も入れられず風化にまかせてボロボロな所が多いのですが、ここは公園としてきれいに整備されていて、訪れる人も多いようでした。

シロソ砦から駐車場に戻る途中、海沿いの道を通った時に見えた風景。
対岸のビルは、本当に湾曲する形で作られていて、ビルとビルの間にスカイウォークも見えます。こういう無駄というか遊びに溢れているのがシンガポールのビルの特徴でもあります。
手前の船は、観光クルーズ船ですね。

シロソ砦から駐車場に戻りましたが、まだ時間があるので、そこからビーチの方に下りてみました。
写真の右上あたりに駐車場があり、全室オーシャンビューのリゾートホテルの下一帯が、シロソビーチ。
セントーサ島の南西部は、このシロソビーチから南東数kmに渡ってビーチが整備されており、シンガポール人や観光客が、海水浴やアクティビティを楽しむことができるスポットになっています。
海岸線に沿った道路には、セントーサビーチトラム(Sentosa Beach Tram)という無料で乗れる周遊シャトルが10分間隔で運行されているので、それに乗って、「The Southermost Point of Continental Asia (アジア大陸最南端地点)」があるというパラワンビーチへ向かいます。

パラワンビーチに着いたら、植え込みの中にちょっと古ぼけつつある看板がありました。
ここが最南端地点なのかと思ったら、石田君がもっと先だと言うのです。

なんと、ビーチのちょっと沖に砂の小島があり、そこまで吊り橋がかかっているではありませんか。
小島には、展望台が2基あって、その間をスカイウォークが繋いでいたりします。

ちょっと揺れる吊り橋を渡った先に、「THE SOUTHERNMOST POINT OF CONTINETAL ASIA」と書かれたフォトポイントがあったので、とりあえず記念撮影しました。
しかし、シンガポールそのものが島国で、セントーサ島はその南端の島。さらに、この看板がある地点は、セントーサ島のビーチから吊り橋で渡る島なので、Continetal Asia(アジア大陸)と地続きではないんですよね。
しかも、地図で確認したら、ここはセントーサ島の最南端でもありませんでした。
いいんですかね?こんなアバウトなことで(笑)。
ちなみに、真の意味でアジア(ユーラシア)大陸の最南端地点は、マレーシアのジョホール州にあるタンジュン・ピアイという岬の先端だそうです。

「The Southermost Point of Continental Asia」から再びビーチトラムに乗ってシロソビーチに戻り、石田君の車に乗ってセントーサ島を後にしました。
次なる目的地は、「Haw Par Villa (虎豹別墅)」。

かつては「Tiger Balm Garden (タイガーバーム・ガーデン)」と呼ばれていたここは、「Tiger Balm(虎標萬金油) 」という世界的に有名な軟膏で財を築いた実業家Aw Boon Haw(胡文虎)とAw Boon Par(胡文豹)の兄弟によって建設されたもので、1937年に開園しています。
タイガーバーム・ガーデンは香港にもあって、かつて新婚旅行で香港に立ち寄った際に訪れた記憶があるのですが、2000年に閉園しちゃったみたいですね。

それでこの「虎豹別墅」ですが、結構広い敷地の中に、中国の儒教・道教・仏教や、様々な伝説・説話等をモチーフとした数多くの像とかジオラマがあちこちに展示されています。
十大地獄の様子を表したおどろおどろしいものや、『西遊記』をモチーフにしたものなど日本人にもわかりやすいものから、何となく言わんとしていることはわからなくも無いけど出典がわかるともっと理解できるのだろうなというもの、はたまた全然理解できんわというものまで、多種多様。

とにかく、極彩色でサイケでキッチュでグロテスク。
なんとなく不安で落ち着かない雰囲気が漂っていて、異世界感満載。
ちっちゃい子ども連れてきたら、阿鼻叫喚で悲惨なことになりそうですが、意外と子ども連れもたくさんいました。
創設者の胡兄弟の精神世界を反映しているらしいのですが、いやいやどんな人達だったんでしょうね?
胡兄弟は金出して造らせただけなので、これらの像を実際に造った造形作家というか職人さん達も大勢いるはずで、それが揃いも揃ってへたうま感に溢れていることに逆に驚き。

何故か、相撲の力士像もあったりして。横綱の土俵入りの場面なのかな?
私の感性だと、一回行ったらお腹いっぱいになっちゃって、もう次は無いかなと思いましたが、入場無料だし、話の種に一回は行ってみるべきなのかも。
「その11 最後の夕食〜帰国」へ続く。
美味しいラクサをいただいた後、石田君の車は、シンガポール南部にあるレジャーアイランドのセントーサ島へ。
FORT SILOSO (シロソ砦)

カジノやユニバーサルスタジオ、ゴルフ場、ビーチなど様々なエンターテイメント施設のあるセントーサ島ですが、石田君がまず案内してくれたのは、島の西端にある「FORT SILOSO (シロソ砦)」。

1880年代にイギリス軍がシンガポール港の防御のために築いた要塞で、1942年2月の日本軍との戦いで陥落した戦跡です。
現在は、当時の遺構を生かした「シロソ砦戦争記念館」として公開されています。
まず、駐車場の近くのスカイウォーク入口からエレベーターで上に上ります。

高い所が苦手という石田君の話によると、シンガポール人はスカイウォークが大好きで、いろんなところに無駄にスカイウォーク作るらしいのですが、上に昇ると、南側にはこんな光景が広がっていました。
沖合には、入港を待つ船がずらりと並んでいて、なかなかの壮観です。
何せシンガポール港は、コンテナ貨物取扱量で世界第2位の港(第1位は上海港(2018年))。
日本で1位は東京港(世界では35位(2018年))なのですが、その8倍、年間約3,660万TEUのコンテナを取り扱います。

同じ場所から反対側、シンガポール本島側を望むとこんな風景が。
豪華客船が停泊している奥に、本島からセントーサ島に渡るケーブルカーが見えます。

スカイウォークを奥へ進むと、シロソ砦の入口に到着。
広い敷地に点在する要塞の遺構を生かしながら、当時使われた大砲などが、人形などとともにリアルに展示されています。
場所によっては、人が近づくと自動的に音声が流れる仕掛けがほどこされていたりして、なかなか凝った展示になっていました。

こんな風に、対艦射撃用の6インチ砲と人形がリアルに配置してあったりする訳です。

これは、イギリス軍が使っていた9.2インチ砲の砲身。
こんなのがあちこちにごろごろしてましたが、ミリヲタでもないので、華麗にスルーしました。
日本軍の攻撃により陥落したこの要塞は、その後イギリス軍兵士の収容所として使われたりしたそうです。
日本の戦争遺構って、殆ど手も入れられず風化にまかせてボロボロな所が多いのですが、ここは公園としてきれいに整備されていて、訪れる人も多いようでした。

シロソ砦から駐車場に戻る途中、海沿いの道を通った時に見えた風景。
対岸のビルは、本当に湾曲する形で作られていて、ビルとビルの間にスカイウォークも見えます。こういう無駄というか遊びに溢れているのがシンガポールのビルの特徴でもあります。
手前の船は、観光クルーズ船ですね。
アジア大陸最南端地点!?

シロソ砦から駐車場に戻りましたが、まだ時間があるので、そこからビーチの方に下りてみました。
写真の右上あたりに駐車場があり、全室オーシャンビューのリゾートホテルの下一帯が、シロソビーチ。
セントーサ島の南西部は、このシロソビーチから南東数kmに渡ってビーチが整備されており、シンガポール人や観光客が、海水浴やアクティビティを楽しむことができるスポットになっています。
海岸線に沿った道路には、セントーサビーチトラム(Sentosa Beach Tram)という無料で乗れる周遊シャトルが10分間隔で運行されているので、それに乗って、「The Southermost Point of Continental Asia (アジア大陸最南端地点)」があるというパラワンビーチへ向かいます。

パラワンビーチに着いたら、植え込みの中にちょっと古ぼけつつある看板がありました。
ここが最南端地点なのかと思ったら、石田君がもっと先だと言うのです。

なんと、ビーチのちょっと沖に砂の小島があり、そこまで吊り橋がかかっているではありませんか。
小島には、展望台が2基あって、その間をスカイウォークが繋いでいたりします。

ちょっと揺れる吊り橋を渡った先に、「THE SOUTHERNMOST POINT OF CONTINETAL ASIA」と書かれたフォトポイントがあったので、とりあえず記念撮影しました。
しかし、シンガポールそのものが島国で、セントーサ島はその南端の島。さらに、この看板がある地点は、セントーサ島のビーチから吊り橋で渡る島なので、Continetal Asia(アジア大陸)と地続きではないんですよね。
しかも、地図で確認したら、ここはセントーサ島の最南端でもありませんでした。
いいんですかね?こんなアバウトなことで(笑)。
ちなみに、真の意味でアジア(ユーラシア)大陸の最南端地点は、マレーシアのジョホール州にあるタンジュン・ピアイという岬の先端だそうです。
Haw Par Villa (虎豹別墅)

「The Southermost Point of Continental Asia」から再びビーチトラムに乗ってシロソビーチに戻り、石田君の車に乗ってセントーサ島を後にしました。
次なる目的地は、「Haw Par Villa (虎豹別墅)」。

かつては「Tiger Balm Garden (タイガーバーム・ガーデン)」と呼ばれていたここは、「Tiger Balm(虎標萬金油) 」という世界的に有名な軟膏で財を築いた実業家Aw Boon Haw(胡文虎)とAw Boon Par(胡文豹)の兄弟によって建設されたもので、1937年に開園しています。
タイガーバーム・ガーデンは香港にもあって、かつて新婚旅行で香港に立ち寄った際に訪れた記憶があるのですが、2000年に閉園しちゃったみたいですね。

それでこの「虎豹別墅」ですが、結構広い敷地の中に、中国の儒教・道教・仏教や、様々な伝説・説話等をモチーフとした数多くの像とかジオラマがあちこちに展示されています。
十大地獄の様子を表したおどろおどろしいものや、『西遊記』をモチーフにしたものなど日本人にもわかりやすいものから、何となく言わんとしていることはわからなくも無いけど出典がわかるともっと理解できるのだろうなというもの、はたまた全然理解できんわというものまで、多種多様。

とにかく、極彩色でサイケでキッチュでグロテスク。
なんとなく不安で落ち着かない雰囲気が漂っていて、異世界感満載。
ちっちゃい子ども連れてきたら、阿鼻叫喚で悲惨なことになりそうですが、意外と子ども連れもたくさんいました。
創設者の胡兄弟の精神世界を反映しているらしいのですが、いやいやどんな人達だったんでしょうね?
胡兄弟は金出して造らせただけなので、これらの像を実際に造った造形作家というか職人さん達も大勢いるはずで、それが揃いも揃ってへたうま感に溢れていることに逆に驚き。

何故か、相撲の力士像もあったりして。横綱の土俵入りの場面なのかな?
私の感性だと、一回行ったらお腹いっぱいになっちゃって、もう次は無いかなと思いましたが、入場無料だし、話の種に一回は行ってみるべきなのかも。
「その11 最後の夕食〜帰国」へ続く。
「その8 戦争の記憶を訪ねる旅」から続く。

「Former Ford Factory」から西に車を走らせ、広い幹線道路から住宅街の細い道に入って到着したのが、「シンガポール日本人墓地公園」。
1888(明治21)年にシンガポールで娼館主・雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林を日本人共有墓地のためにと提供したことに端を発し、1891(明治24)年に開設されたこの墓地には、からゆきさん、戦前に活躍した日本人、戦犯処刑者などが明治から昭和にかけてシンガポールで亡くなったたくさんの日本人が眠っています。

その二木多賀治郎の墓。
長野県出身の元船員で、1888(明治21)年に渡星。娼館、雑貨商、ゴム園の経営で財をなし、初期の日本人街のまとめ役となった人物。
日本人の相互扶助を目的とした「共済会」を発足させ、それが現在も続く「日本人会」の礎となっており、この墓地は、今も「シンガポール日本人会」が毎年慰霊祭を行っているのだとか。

墓碑ではなく、小さな石柱だけが並ぶのが、からゆきさんの墓。
からゆきさんについては、山崎朋子著『サンダカン八番娼館』や森崎和江著『からゆきさん』に詳しいのですが、貧困故に身売りされて娼館で働いていた女性達が、故郷に帰る夢を果たせぬまま異国の地で亡くなった無念が眠っています。
この墓地にからゆきさんの墓が多いのは、解説者の二木多賀治郎が娼館を経営していたことと無縁ではないのでしょう。

からゆきさんの墓が並ぶエリアの近くにあった、明治時代のロシア文学家、翻訳家、小説家であった二葉亭四迷の碑。
傍らの説明板に、「この石碑は墓ではない。」と書かれていました。
1909(明治42)年、朝日新聞特派員として赴任していたロシア・ペテルブルグで重い感冒を患い、帰国するために乗っていた日本郵船の「加茂丸」の船中にてインド洋上で5月10日に客死。
「加茂丸」は5月13日にシンガポールに入港し、四迷の遺体は埠頭近くのパシルパンジャンという小山で荼毘に付されました。遺骨は日本の遺族の元に届けられましたが、終焉の地ということで、この日本人墓地に碑が置かれることになったとのこと。

こちらは、昭和初期に「マレーの虎」と呼ばれた谷豊(たにゆたか)の顕彰碑。
福岡県出身で2歳の時に一家でイギリス領マレーに移住。満州事変の勃発に怒った華僑暴徒に異母妹が惨殺された事を機にマレーの友人達と華僑を主に襲う盗賊団を組織、「ハリマオ」として知られるようになりました。
マレー半島を転々としながら活動し、太平洋戦争が始まると日本軍に協力して諜報活動に従事しましたが、マラリアに罹患し、1942(昭和17)年3月に30歳の若さで死亡。
没後に埋葬されたと伝えられる墓地は現存せず、ここには顕彰碑があるのみです。
1960(昭和35)年に作製されたテレビドラマ『怪傑ハリマオ』のモデルとなったことで有名なのですが、最近では知らない人の方が多いのでしょうね。

この他にも、有名、無名を問わずたくさんの墓標が並んでいました。
シンガポールの歴史の中でそれぞれに人生を歩んだ人々が眠る墓地、なかなかに感慨深いものがありました。

日本人墓地公園に続いて、昼食はシンガポールの国民的麺料理「ラクサ」を食べるために、石田君がKATONG(カトン)地区にある「328 Katong Laksa」へ連れてきてくれました。
カトンは、中国、マレー、ヨーロッパの文化をミックスさせた独特の「プラナカン文化」が色濃く残る場所で、ラクサの発祥の地とも言われています。

店の奥にあるカウンターの上に掲げられたメニュー板を見ると、ラクサがメインで、サイドオーダーがちょこちょこ。

オーダーしたのは、ラクサのSmall(S$5.5)とオタ(S$1.40)。
オタ(Otak)は、魚のすり身にタピオカ澱粉とスパイスを混ぜて、バナナの皮に包んで焼き上げた料理で、主にインドネシア、マレーシア、シンガポールで食べられています。

ラクサの方は、海老と貝のこくのあるスープに唐辛子の辛み、をれをココナッツミルクの甘さとまろやかさが包み込む、調和の取れた味。
辛さはマイルドで、チリソースが別袋で付いてきましたが、噂に寄ればこれが超激辛とか。使わずに持ち帰ったので、いずれ何かの料理に使ってみようかと思います。
麺は、中太の米粉麺が短く切ってあって、箸ではなくレンゲで食べるようになっていました。カトンのラクサは、短い麺が特徴のようです。
ラクサ自体は宮崎でも食べたことがあるのですが、本場の味はこれが初めて。なかなかに美味しくて、さすがにシンガポールを代表する麺料理だけのことはあります。
「その10 セントーサ島〜虎豹別墅」に続く
日本人墓地公園

「Former Ford Factory」から西に車を走らせ、広い幹線道路から住宅街の細い道に入って到着したのが、「シンガポール日本人墓地公園」。
1888(明治21)年にシンガポールで娼館主・雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林を日本人共有墓地のためにと提供したことに端を発し、1891(明治24)年に開設されたこの墓地には、からゆきさん、戦前に活躍した日本人、戦犯処刑者などが明治から昭和にかけてシンガポールで亡くなったたくさんの日本人が眠っています。

その二木多賀治郎の墓。
長野県出身の元船員で、1888(明治21)年に渡星。娼館、雑貨商、ゴム園の経営で財をなし、初期の日本人街のまとめ役となった人物。
日本人の相互扶助を目的とした「共済会」を発足させ、それが現在も続く「日本人会」の礎となっており、この墓地は、今も「シンガポール日本人会」が毎年慰霊祭を行っているのだとか。

墓碑ではなく、小さな石柱だけが並ぶのが、からゆきさんの墓。
からゆきさんについては、山崎朋子著『サンダカン八番娼館』や森崎和江著『からゆきさん』に詳しいのですが、貧困故に身売りされて娼館で働いていた女性達が、故郷に帰る夢を果たせぬまま異国の地で亡くなった無念が眠っています。
この墓地にからゆきさんの墓が多いのは、解説者の二木多賀治郎が娼館を経営していたことと無縁ではないのでしょう。

からゆきさんの墓が並ぶエリアの近くにあった、明治時代のロシア文学家、翻訳家、小説家であった二葉亭四迷の碑。
傍らの説明板に、「この石碑は墓ではない。」と書かれていました。
1909(明治42)年、朝日新聞特派員として赴任していたロシア・ペテルブルグで重い感冒を患い、帰国するために乗っていた日本郵船の「加茂丸」の船中にてインド洋上で5月10日に客死。
「加茂丸」は5月13日にシンガポールに入港し、四迷の遺体は埠頭近くのパシルパンジャンという小山で荼毘に付されました。遺骨は日本の遺族の元に届けられましたが、終焉の地ということで、この日本人墓地に碑が置かれることになったとのこと。

こちらは、昭和初期に「マレーの虎」と呼ばれた谷豊(たにゆたか)の顕彰碑。
福岡県出身で2歳の時に一家でイギリス領マレーに移住。満州事変の勃発に怒った華僑暴徒に異母妹が惨殺された事を機にマレーの友人達と華僑を主に襲う盗賊団を組織、「ハリマオ」として知られるようになりました。
マレー半島を転々としながら活動し、太平洋戦争が始まると日本軍に協力して諜報活動に従事しましたが、マラリアに罹患し、1942(昭和17)年3月に30歳の若さで死亡。
没後に埋葬されたと伝えられる墓地は現存せず、ここには顕彰碑があるのみです。
1960(昭和35)年に作製されたテレビドラマ『怪傑ハリマオ』のモデルとなったことで有名なのですが、最近では知らない人の方が多いのでしょうね。

この他にも、有名、無名を問わずたくさんの墓標が並んでいました。
シンガポールの歴史の中でそれぞれに人生を歩んだ人々が眠る墓地、なかなかに感慨深いものがありました。
328 Katong Laksa

日本人墓地公園に続いて、昼食はシンガポールの国民的麺料理「ラクサ」を食べるために、石田君がKATONG(カトン)地区にある「328 Katong Laksa」へ連れてきてくれました。
カトンは、中国、マレー、ヨーロッパの文化をミックスさせた独特の「プラナカン文化」が色濃く残る場所で、ラクサの発祥の地とも言われています。

店の奥にあるカウンターの上に掲げられたメニュー板を見ると、ラクサがメインで、サイドオーダーがちょこちょこ。

オーダーしたのは、ラクサのSmall(S$5.5)とオタ(S$1.40)。
オタ(Otak)は、魚のすり身にタピオカ澱粉とスパイスを混ぜて、バナナの皮に包んで焼き上げた料理で、主にインドネシア、マレーシア、シンガポールで食べられています。

ラクサの方は、海老と貝のこくのあるスープに唐辛子の辛み、をれをココナッツミルクの甘さとまろやかさが包み込む、調和の取れた味。
辛さはマイルドで、チリソースが別袋で付いてきましたが、噂に寄ればこれが超激辛とか。使わずに持ち帰ったので、いずれ何かの料理に使ってみようかと思います。
麺は、中太の米粉麺が短く切ってあって、箸ではなくレンゲで食べるようになっていました。カトンのラクサは、短い麺が特徴のようです。
ラクサ自体は宮崎でも食べたことがあるのですが、本場の味はこれが初めて。なかなかに美味しくて、さすがにシンガポールを代表する麺料理だけのことはあります。
「その10 セントーサ島〜虎豹別墅」に続く