宮崎県における大正期の公共図書館政策

1 大正以前の図書館

時代が大正へと移るまでに、宮崎県内には、既に宮崎県立、北諸県郡教育会付属、小林村立の3つの図書館があった。

宮崎県立図書館は、1888(明治31)年4月に宮崎郡大宮村下北方(元宮崎大学教育学部跡)に建てられた日州教育会付属図書館を、1902(明治35)年に財政困難のため県に移管し、宮崎町上別府(現在の宮崎県庁外来駐車場付近)に移築して設立されたものである。明治44年度の県統計書によれば、蔵書冊数は和漢書・洋書合わせて14,526冊、年間の閲覧人員は 9,191人であった。

北諸県郡教育会付属図書館は、同教育会が1902(明治35)年2月に都城尋常小学校(現在の都城市立明道小学校)に設置したもので、翌1903(明治36年)からは近くの郡役所の敷地に移転して活動していた。前出の資料によれば、明治44年度の蔵書冊数は和漢書・洋書合わせて 1,363冊、年間の閲覧人員は 468人であった。

小林村立図書館は、東宮殿下(大正天皇の皇太子時代)の本県行啓を記念して、1908(明治41)年6月に小林尋常高等小学校に付設する形で開館した。本県の公立図書館としては県立に次いで2番目、市町村立図書館としては最も早い誕生である。同じく明治44年度の蔵書冊数は和漢書・洋書合わせて 453冊、年間の閲覧人員は 380人であった。

2 時代的背景

小林村立図書館の開館と同じ1908(明治41)年に、西諸県郡飯野村(現えびの市)では、フランス人経営の製材工場で職工が暴動を起こし、工場などを破壊するという事件(飯野フランス山暴動事件)が起こっている。これは、宮崎県初のストライキとして名高いが、同様の事件は、宮崎に限らず各地で顕在化しつつあった。日清・日露の二つの戦争を通して、日本は帝国主義への道を歩み、政治的、社会的な多様化が進行していた。経済的・政治的な構造に大きな変化が起こり、資本主義の矛盾が顕在化してきた時代である。地方では、地主による小作農民の収奪が行なわれ、その結果小作争議が多発し、農民の都市への流失、戦争による働き手の喪失などもあって農村は荒廃していった。都市では、貧しい農民や労働者の流入に日露戦争後の不況が加わって、大規模な労働争議が起こっていた。政府は、無謀に膨れ上がった財政を緊縮し、国家的な観点で効率よく公益事業を行なう必要があり、地方の利益は無視されることとなった。

このため、地方に対して自助努力を促す意味で発布されたのが、1908(明治41)年10月の戊申証書である。
「戦後日尚浅ク、庶政益々更張ヲ要ス。宜ク上下心ヲ一ニシ、忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ、惟レ信、惟レ義、醇厚俗ヲ成シ、華ヲ去リ実ニ就キ、荒怠相戒メ、自彊息マサルヘシ」
と、勤勉貯蓄を説いている。

この戊申証書を受ける形で、地方改良運動が展開された。地方改良運動の内容について、担当部局である内務省地方局の報告書は、「自治団体における事務の改善、財政の整理を始め、経済殖産の開発、訓育風化の施設、矯風奨善の事業、勤倹貯蓄の奨励の如き、総てこの中に包含せられざるなし」と記している(1)。ここに出て来る「訓育風化の施設」の代表が、図書館であった。

政府は、それまでの各地での優れた実践を取り入れて、1910(明治43)年文部大臣(小松原英太郎)訓令「図書館設立ニ関スル注意事項」と1912(大正元)年発行、文部省編『図書館管理法(改訂版)』で今後の図書館のあり方を示した。

訓令は、
「常ニ有益ナル新刊図書ノ増加ヲ図リ、館内ニ於テ閲覧ニ供スルハ勿論、広ク館外ニ貸出シ、稍規模ノ大ナル図書館ニアリテハ或ハ分館ヲ設ケ或ハ巡回文庫ノ制ヲ立ツル等、ナルヘク地方一般ニ書籍ノ供給ヲ図ランコトヲ要ス」
など、具体的に運営方法を指示した。また『図書館管理法(改訂版)』も、新たに「第2章 近世的図書館ノ特徴」の節を起こし、近世的図書館とは(1)公立で無料公開、(2)書庫の解放、(3)児童閲覧室の設置、(4)図書館と学校との連絡、(5)分館の制、(6)巡回文庫をあげ、その実施を勧奨した(2)

更に訓令は、図書館を通俗図書館と「小学校ニ附設スル図書館ノ類」に分け、後者は「成ルベク其ノ施設ヲ簡易ニシ……」と指示されたため、一般に簡易図書館と呼ばれた(3)。この簡易図書館は、地方改良運動の波に乗って、全国に驚くほど誕生することになるのである。

3 通俗図書館

大正期における本県の図書館の状況は、こうした中央の動きにほぼ呼応する形で動くことになる。

1913(大正2)年12月、北諸県郡都城町(現都城市)に、同町出身の上原勇作元帥の陸軍大臣就任を記念して、私立上原文庫が開館した。上原は、1912(明治45)年4月に陸相に就任したが、朝鮮への2個師団増設案を閣議で否決されたことを不満として、同年12月には辞表を提出し、当時の西園寺内閣を総辞職に追い込んだことで有名である。1914(大正3)年8月には、先に都城にあった北諸県郡教育会付属図書館が、この上原文庫の敷地内に移転している。

1915(大正4)年11月、大正天皇が京都御所で即位礼を挙行した。県は、この即位の大礼を記念して県立図書館の新館建築を図り、9カ月の工事を経て、同年11月3日に落成した。本館はルネッサンス式木骨モルタル塗2階建(建坪延111坪)、書庫は総煉瓦の3階建(延51坪)で、別に旧建物の南に建坪56坪の木造平屋建の別館を増築し、これを児童室にあてた(それまでは、12才以上でないと閲覧すらできなかった)。本館の2階は、一般閲覧室(39坪)、婦人閲覧室(9坪)、新聞閲覧室(20坪)に分かれていたという。御大典図書館と呼ばれたこの図書館は、当時の宮崎の建物としては、まさに壮麗な図書館であったが、1959(昭和34)年に火事のため焼失した。余談だが、大正4年2月22日に行われた県立図書館の定礎式にあたって、日州新聞は記念号を発行し、図書館の沿革を刻んだ銅板をこれでくるんで礎石の下に埋めたという。後年、県立図書館が現在地に移転した際に、その跡地を捜したが、残念ながらこのタイムカプセルは発見できなかったとのことである。

新館の建設に先立つ1914(大正3)年には巡回文庫を開始し、同年、8代目にして初めて専任の館長である山内卯太郎が就任するなど、県立図書館の体制は着々と整備されていった。新館の開館に合わせて、1916(大正5)年3月には図書館規程も改正された。この改正では、閲覧票の様式が整備され、一般用とは別に児童用の閲覧票も定められた。児童閲覧票には、注意書きとして「書物はていねいに取りあつかひ読み終ればもとの所に納めて置きなさい、此の票には読みたる書物の数と住所、氏名、月日を書いて出る時に受付に渡しなさい」と口語体で書かれ、「此票ニハ住所、職業、氏名ヲ記入シ退場ノ際受付ニ返納スベシ」という文語体の一般用に比べるとやさしくわかりやすくなっている。また、貸出しについても、図書借出閲覧証の様式を定め、それまで必要だった収入印紙や保証人を不用として、手続きを簡便にした。

この年の10月、国鉄宮崎線が開通し、宮崎と鹿児島が一本の線でつながれた。宮崎は、三方を山に、一方を荒海と呼ばれた日向灘に囲まれ、交通の便がなく、陸の孤島とまで言われていた。孤島からの脱出は様々な意味で県民の悲願であり、明治の末期から、鉄道の整備が盛んに進められていた。新しい図書館の完成と鉄道の開通は、新しい時代の幕開けを感じさせるできごとだったに違いない。同年10月28、29日の両日、県立図書館の新館開館とこの鉄道の開通を記念して、日本図書館協会九州支部の第2回総会が本県で開催されている。

翌1917(大正6)年、県は、当時の県会で「中央集権よろしくない」との空気があったことを受けて、5月21日付けの告示第 217号で「宮崎県立図書館ヲ宮崎県立宮崎図書館ト改称シ北諸県郡都城町ニ宮崎県立都城図書館ヲ東臼杵郡延岡町ニ宮崎県立延岡図書館ヲ設置ス」と告示している。『図書館管理法(改訂版)』のいう「分館の制」の具体化である。

県立図書館規程は、同年5月再び改正された。この改正では、職員の章が新たに設けられ、知事の嘱託によって図書館の経営に関し諮問するための評議員が置かれることになった。また、貸出しについては特許証(今で言う貸出利用券のようなもの)を交付することになり、携出図書請求券とともに提示すれば貸出しが受けられるようになった。さらに巡回文庫の章を設け、県内の青年団体のほか、求めに応じて学校図書館や公益団体、工場、孤児院にも貸し出すこととし、一層の図書の普及を図ることとなった。この改正以後、1947(昭和22)年4月まで図書館規程の改正は行なわれておらず、この改正が戦前までの県立図書館のサービスの根幹となったのである。

県立都城図書館は、1917(大正6)年7月に仮事務所で開館した後、8月31日に上原文庫敷地内に竣工した新館に移転し開館した。これにより、上原文庫は 5,200冊の蔵書とともに県立都城図書館に移管されることになった(4)。一方の県立延岡図書館は、1918(大正7)年7月に本小路(現在の野口記念館の北側敷地)に開館した。前面一部2階建、奥に閲覧室兼講堂、別棟で書庫1棟の構成だった(5)という。

こうして、県立図書館の3館体制は整い、大正の終わりには、県立宮崎図書館の閲覧者は、毎月2千人を越えるまでになった。1922(大正11)年8月には、観光の名所で海水浴場としても名高い青島に海水浴のシーズンだけ「納涼文庫」を開設し、訪れた海水浴客の閲覧に供するというようなサービスも始めている。この「納涼文庫」は好評を博したようで、この後、県立宮崎図書館の恒例の行事となり、戦争による中断をはさんで、戦後もしばらく続いた。

大正時代には、このほかの通俗図書館設立の動きもいくつか記録に残っている。まず、『高鍋町史』や県古公文書の記録から、1922(大正11)年に高鍋町立図書館が開館していることがわかる。さらに、日向市立図書館の沿革には、1915(大正4)年3月に美々津町立図書館(現日向市美々津)が創立したとある。県統計書によれば、大正13年度には公立図書館が9、簡易図書館が50(私立1を含む)とある。翌年度には公立図書館が23に増えたが、逆に簡易図書館は38(私立2を含む)になっている。統計書には館名が記されていないため通俗図書館と簡易図書館の境界は明白ではない。美々津町立図書館も、統計書の上でいつから公立図書館に計上されているのか不明である。いずれにせよ、都市部の図書館はともかく、小さな町村の図書館では、通俗図書館と簡易図書館との間に、その活動の上でそれほど大きな差はなかったのであろう。

4 簡易図書館

通俗図書館の状況については、これまで見てきたとおりであるが、一方の簡易図書館についてはどうだったのであろうか。1917(大正6)年、郡長会議において、知事が「図書館事業の社会教育上緊要の施設たるは喋々を要せざる所県は来年度より現在図書館の外新に都城及延岡の地に県立図書館を増設することに決し同時に巡回文庫の取扱をなさしむることを企画したり是等図書館の利用を盛にし巡回文庫の効果をして確実ならしめんは固より諸君の助力に待つ所大なるものあり特に県下各町村に簡易図書館の設立を奨励し県立図書館と相まって地方の開発に寄与せしむるが如きは最切要の事たり諸君宜しく地方の財政並民力の状況に稽へ漸次之が設立を奨励せられんことを望む」(6)という訓令を発している。同年7月には、県は「簡易図書館の施設経営方案」(7)を立案し、関係者へ配布している。これを見ると、まず経営の目的として、
「一.一般公衆ノ読書趣味ヲ涵養シ風尚ヲ高メ其ノ知徳ヲ啓発セシムル事
二.特ニ地方ノ青年男女ニ対シ適当ノ図書ヲ供給シ以テ青年団又ハ処女会ノ指導ノ一端トシ併テ学校教育ノ効果ヲ持続発揮セシムル事」
を掲げ、以下、運営の方法から台帳の様式、巡回文庫用の木製書架の構造にいたるまで細かく示されている。設置場所は「町村立小学校ニ附設スルヲ可トス」とし、経費の最小限度額を50円と定めている。貸出し・返納は毎週土曜日の放課後に行なうものとし、書架の整理や閲覧者数の調査、貸出しの事務などは小学校の児童に行なわせるようにしている。また、閲覧用の書架のほかに、4,50冊の図書を持ち運びのできる木製書架に納めた巡回文庫をいくつか持ち、15日から1ヶ月程度の期間で回送するようになっている。

こうした県の指導を受けて、翌1918(大正7)年には、初の認可申請が出され、この年に24館の簡易図書館が開館している。県公古文書として現存する認可申請書につけられた館則には、そのほとんどに「本館ハ主トシテ青年男女ノ修養ニ必要ナル各種ノ図書ヲ蒐集シ公衆ノ閲覧ニ供ス」といったような目的が示され、庶民の教化・善導が大きな目的であったことがわかる。特に「青年男女」と明示されているのは、この時代に指導・教化のための組織として育成に力が入れられた青年団を強く意識してのことであろう。図書館は、学校の始業時から放課後1時間くらいまで、閲覧のために開館されていたようである。運営の費用は各町村の負担だが、県からの奨励金のほか、優良な図書館に対しては国からも補助金が出ていた。

こうして、県内でも各町村ごとに次々と簡易図書館が作られてゆく。県統計書によると、簡易図書館の数は、1923(大正12)年の54館をピークにいったん減少し、大正末には37館にまで減るが、昭和になると再び増加に転じ、1932(昭和7)年には65館にまで達している。昭和10年度の統計書からは通俗図書館と簡易図書館との区別が消え、単に図書館としてしか示されていないため具体的な数はわからないが、昭和7年度の65館を最高に、以後減少の一途をたどり、太平洋戦争への突入とともに消失の道を歩んだものと思われる。

簡易図書館の活動の実態については、一次資料がほとんど残っていないため明らかではないが、その数の華やかさほどには、十分な効果があったのかは疑わしい。1922(大正11)年9月22日付の日州新聞に、大正10年度の公立図書館46館の蔵書冊数と閲覧人員が紹介されている。これによるとそのうち蔵書数が 300冊を越える図書館は15館と、全体の3分の1しかなく、通俗図書館である宮崎、都城、延岡、小林を除くと、 1,000冊を越える蔵書を持つのは、飯野(現えびの市飯野)一カ所だけである。同年2月に文部省より、高城村立図書館、飯野図書館、下穂北村図書館に優良図書館としてそれぞれ30円の補助金が交付されているが、その選定の過程を見ると、蔵書 500冊以上または経費 300円以上(但し蔵書10,000冊以上または経費 5,000円以上を除く)という文部省の示す基準を越えている図書館は、わずか7館に過ぎない(8)。現在の公共図書館のイメージからすると、簡易図書館が図書館の粗製濫造と評されるのもうなずける。数は多いが、資料数があまりにも少ないのである。

5 大正デモクラシー

大正時代は、大正デモクラシーの名のごとく、吉野作造の民本主義を筆頭に、社会主義や共産主義などの思想が日本でも開花し、政党内閣の出現、言論の自由や参政権の拡大など民主的な権利の確保に庶民が力を入れ始めた時代でもある。このような状況に対し、政府は危機感を強め、統制のための施策を次々に実施してゆく。通俗図書館の強化、簡易図書館の設置促進などもこうした施策の延長線上にある。統制はそれだけではなく、図書館の収蔵図書の規制にも乗り出している。1917(大正6)年に設置された臨時教育会議の通俗教育(社会教育)についての答申には、「善良ナル読物ノ供給」「出版物ノ取締ニ関シ一層ノ注意ヲ」などという文言が見える。

こうした動きを受けて、県は1924(大正13)年に各郡市長に対して、その管内図書館の図書購入、閲覧者の指導についての注意を文書で流している(9)。この中で、漁村においては漁業上の参考書を多くし、農村では農事上の書籍を多くするなど「地方的色彩」を発揮し、「読書ニ依ッテ得タル智識ヲ実際生活ニ応用セシムルガ如ク指導」するよう要求している。また、「図書選択上ノ注意」として、「閲覧者ノ意ヲ迎フルガ如キ選択者ノ趣好ニ傾クガ如キコトナク購入セラレタシ」とし、「思想上顧慮ヲ要スルモノ」や「無害ナルモ無益ナルモノ」などを「絶対ニ購求」しないよう注意している。後に県立図書館の開館50周年を記念して開かれた回顧座談会の記録(10)には、当時の館員による図書の購入や紹介、研究の会が危険思想視されたり、当時の山内館長がアンチ吉野(作造)で、この種の本は一切買わなかったことなどが紹介されている。

しかし、実際の利用は、こうした統制にもめげず実にしたたかだったようで、当時の新聞には、「学生が小説を読みたがるのは教育上一考を要する。成るべく健全なる書物を選択して指導してやる責任があると信じている」(大正5年9月22日付日州新聞)とか、「其読まれる書物はどんなものか十二日の日曜には文芸で二一人の二六冊、他はズット減で歴史の六人の九冊、産業の五人と九冊という順序である。そして昼間夜間を通じて神書、社会、教育、図書館、経済、財政、統計、工科、諸芸の八つの堅いものは一冊も読まれてゐない。」(大正6年8月15日付日州新聞)、「現在延岡図書館で一番多く読まれているのは、矢張り各地の現象と同じ文学物が第一位を占め次いで、語学、歴史、哲学、社会、教育等の順である。」(大正8年11月15日付日州新聞)などという記事が毎年のように見られるのである。上意下達で「健全な図書」を紹介し、意識の教化や思想の善導を図ろうとする体制に対し、自由な読書を楽しむ庶民の健全さを垣間見る思いである。

6 終わりに

大正時代は、行政主導の強い指導のもとに、図書館が次々と作られた時代である。体制の後押しがあったとはいえ、道路や鉄道など社会基盤の整備もままならない時代に、まがりなりにも多くの人々が自由に無償で利用できる形で図書館が作られたことは、やはり特筆に値する。確かに簡易図書館については、図書館の粗製濫造であるとか、「公共図書館を学校教育の補助機関とみる考え方を助長して、公共図書館独自の機能の発展を阻害し、他面では、学校図書館じたいの発達をも妨げることになった」(11)などという評価もあるが、 500冊に満たない蔵書ながら年間 1,000人を越える閲覧者がいた図書館もあったことを考えると、否定的なイメージだけで簡易図書館を捉えることはできない。娯楽の少なかった時代に、読書という行為を一部の階級のものから、広く一般へと普及させることに果たした役割は少なくないだろう。

大正時代の終わりから、通俗図書館は、社会教育の枠組みの中で思想善導・皇民教育徹底のための機関として位置づけられるようになり、1933(昭和8年)の図書館令の大改正によって、中央図書館を頂点とする国民教化のためのヒエラルキーに組み込まれて行く。簡易図書館もその波から逃れられなかったはずだが、戦争の影でその姿は消え、戦後は全く面影をとどめていない。学校に置かれた簡易図書館が、どのようにして消滅し、なぜ戦後の学校図書館に受け継がれなかったのか、これまでの調査ではわからなかった。そこが明らかになれば、簡易図書館の評価も多少は変化するかもしれない。

それにしても、遅々として整備の進まない現在の宮崎県内の公共図書館の状況を思う時、大正時代の一連の図書館政策は、長期的な展望に立った一貫した図書館振興策と、県立図書館による強力な援助と指導の必要性を今更ながら痛感させるのである。全国でも再下位を低迷する市町村立図書館の活動を活性化するためには、市町村の覚醒をただ待つのではなく、進んで揺り動かす時期に来ているのではないだろうか。

引用及び参考文献

(1) 坂野潤治著 『大系日本の歴史 13巻 近代日本の出発』 小学館  p304
(2) 北嶋武彦編 『現代図書館学講座 14巻 図書及び図書館史』 東京書籍 p87
(3) 岩猿敏生〔他〕編 『新・図書館情報学ハンドブック』 有山閣 p27
(4) 前田厚著 『稿本都城市史 下巻』 都城史談会 p339
(5) 延岡市史編さん委員会編 『延岡市史 下巻』 p170
(6) 『宮崎県立図書館報 第十回 自大正五年至大正六年』 p1
(7) 『宮崎県公古文書 雑書 大正6年 学第13号1』
(8) 北嶋武彦編 『現代図書館学講座 14巻 図書及び図書館史』 東京書籍 p91
(9) 『宮崎県公古文書 社会教育 大正11~13年 学第14号1』
(10) 「緑陰通信」第11号 宮崎県立図書館 p13
(11) 岩猿敏生〔他〕編 『新・図書館情報学ハンドブック』 有山閣 p27

初出:「図書館学 61」1992年12月 西日本図書館学会

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