訪問日:2001年3月10日(土)
久しぶりに自由な時間ができたので、思い切って宮崎県最南端の串間市立図書館へ足を延ばすことにしました。串間市立図書館は、図書館家具の改良・普及に力を入れておられる長崎の平湯文夫先生の設計された家具を、宮崎県内で最初に導入した図書館で、ベテラン司書の又木さんを初めとして、図書館サービスもしっかりしているとの情報を得ていたので、一度訪ねてみたいと常々考えていました。
3月にしては冷え込んだ日が続いて風邪気味だったため、どうしようか躊躇しましたが、天気も良さそうなのでドライブがてら国道220号線を南下しました。
途中の南郷町で昼食を摂り、昼過ぎに串間市へ。図書館の場所はJR串間駅の裏手、文化会館などと同じ敷地に建てられています。事前に同館のWebサイトで場所を確認しておいたので、特に迷うことはありませんでした。
図書館入り口
現在の串間市立図書館は、平成4年11月10日に完成し、平成5年4月18日に開館。総事業費は3億1,484万8,000円で、うち2億2,990万円は起債。
RC2階建で、1階が641.00㎡、2階が218.09㎡で、合計859.09㎡。市の推計人口が2万3,625人(2001年1月1日現在)だから、規模としてはさほど大きくない。
玄関の左手にある返却ポスト。この裏が事務室になっており、この左手にはBM(Book Mobile:移動図書館)の車庫がある。
入り口から入ってそのまま奥の方を見ると、こんな風景が広がる。
柱や壁面には、材の丸みを残した杉材が張られ、木製の書架や家具と相まって、暖かみのある落ち着いた雰囲気になっている。
設計は、宮崎市内にある「コラム設計(有)」で、上の図面が平面図。
画面の左が南で、画面上が西に当たる。東西の面に比較的開口の大きい窓が配置されているため、朝日や西日が館内に直接入りやすいので、窓のブラインドは必需品のよう。訪問時も、途中で西側のブラインドが閉められた。この辺は、設計時に太陽光の角度を考慮しなかったためだろう。直射日光が直接資料に当たると、色の退化が早いので、この辺はしっかり計算しておきたい。
2階に上る階段の途中から、館内を俯瞰してみた。
写真が小さくてわかりにくいが、中書架には天板が無く、全体的に本が前面に出ているので、より以上に本がぎっしりという感じを受ける。
開架蔵書は約4万。総蔵書数は、8万2,244冊(2000年3月末現在)で、うち約1万冊を団体貸出中。残りはBMと2階にある書庫に置かれている。
2階から下を覗くとこんな感じ。
井桁に組まれた四角い枠が、天井から吊された照明(蛍光灯)。空調の関係でこれ以上下には下ろせないらしい。書架の配置と照明の配置がマッチしていない上に、書架よりやや高い位置に照明があるので、全体がやや暗いとのこと。
串間市立は、建物の設計と家具の設計が全く別なので、こんなことになったらしい。これから作る図書館には、こういう細かい部分についても設計屋さんと十分にうち合わせして欲しい。
カウンター周りの様子を上から俯瞰。
この日は、私の相手をしていただいた又木さんを含め3人の職員の方が勤務しておられた。
カウンターの上には、貸出・返却用の端末が1台と、タッチパネル式になっている検索用端末が2台。カウンターの右端で女の子2人が何やら操作しているのが検索端末。
入り口方向からカウンターを見ると、こんな感じ。
カウンターに使われている木の質感と、他の家具の質感が違うので、これは平湯モデルではないはず。おそらく建築の一環で装備されたものだろう。
カウンターの右端に並んで置かれたタッチパネル式の検索用端末。
モニタの電源や画質の調整ボタンを触られないようにだろう、下部に紙で覆いがしてあるが、ガムテープで留められているのが、急造で不格好。折角なら、もう少し工夫が欲しい。
それにしても、検索端末をカウンター上に2台並べて置く必要があるのか疑問。もう1台は別の場所でも良さそう。配線の関係があるのかも。
児童コーナー
カウンター前から右手奥に児童コーナーが広がっている。5段の中書架に沿って奥へ。
右手の窓下に、こんなふうにずらっと奥まで絵本架が配置されている。壁面が直線ではなく凸凹があるため、適度にアクセントがついて面白い配置になっている。
ちょうど親子連れが居合わせたので撮影。書架の高さがおわかりいただけるだろう。子どもの目線で頃合いの良い高さに面展示されている。
こんな風にたくさんの絵本が語りかけてくる。家具が妙に主張せず、しっかりと本を生かすように作られている。
でも、これだけ書架で面展示が多いと、特定の本を探すのは大変そう。職員がしっかりしていないとなかなか維持できないと思う。
児童コーナーの一角に置かれた丸テーブルと椅子。これも平湯モデル。
児童コーナーの一番奥に設けられた「おはなしのへや」。
一段高くなっていて、靴を脱いであがるようになっている。広さはさほど広くなく、幼児向けの絵本が奥に置いてある。
木の一枚板を文字の形に切り抜いて作った看板が天井から下がっている。
この裏、ちょうど「お」の文字の下あたりには、家具をデザインした平湯氏の自筆で、「串間市のこどもたちへ 心をこめて」とサインされている。
「おはなしのへや」の前に置かれた紙芝居用の台とスツール。
紙芝居用の書架。下側のボックスにはキャスターがついていて、引き出せるようになっている。
児童書用の4段の書架。本が、書架の側板より前に飛び出しているのがわかるだろう。本の存在を見事にアピールしている。
ただし、この書架は棚板が固定のため、同じ大きさの本が並ぶときは良いが、版型の異なる本が混在するような場合には並べるのが苦しい。小学校高学年向けの読み物などを並べるには威力を発揮するが、自然科学系や芸術系の分類の本を並べるには工夫が必要。
「おはなしのへや」の前にあり、児童コーナーと一般書のコーナーを隔てる7段の高書架。
これは児童コーナー側から写した写真だが、真ん中の4段目だけ、書架の背板が抜いてある。こどもの目線の高さで、大人の動きがわかるようにするための工夫なのだとか。完全に隔ててしまうよりも、こうした工夫で優しさが増す。児童コーナー側に窓があり明るいので、通路の採光の面からも良い。
一般書コーナー
単行本用の7段高書架。
真ん中の4段目にやや大型の書籍が入るように高さが取ってある。棚板が固定なので、きれいに本が並ぶと棚板で横のラインが強調されて美しいが、反面、大型本の収納に柔軟に対応できない弱点もある。
書架は背板が無い(低い)ので、本の間から反対側が見えるため、高書架を前にしても圧迫感はさほど無い。
文庫本用の書架。これだけぎっしりと並ぶと壮観。
棚の高さは、文庫本の上に指が1本入る程度のスペースが空くように計算されており、まるで書店の文庫コーナーの書架のように無駄がない。
こちらは、新書サイズの書架。文庫用と同じ作りの書架だが、文庫は7段、新書は6段に棚板が設定されている。もちろん、大は小を兼ねるので、この書架に文庫を収用することも可能。
上の新書用の書架を逆方向から見たところ。
開架の書架は、本当に余裕がないくらいぎっしりと本が詰まっている。
入り口から見て一番奥、南側の窓下は、図鑑や百科事典など大型本を収納するように2段の書架が置かれている。
一般書の書架の端には、ちょっと腰掛けて本を読むためのスツールも置かれている。
中書架の側面に付けられたサイン。
こちらは、高書架の側面のサイン。大きく、見易く。
入り口から見て左手奥、東側の壁面に沿って、このようなテーブルが全部で5卓配置されている。
カウンターの前のスペースには、展示用の楕円形のテーブルが置かれている。
訪問した時は、インテリアの特集が組まれていて、関連の書籍や雑誌が置かれていた。こんなテーブルがあると、その上でいろんな工夫をして展示が可能。テーマの選定や選書の中身、展示の方法などで図書館員の才覚が問われるところでもある。
これもカウンター前のスペースに置かれた展示用の台。
ここでは、新刊の展示に使われていた。上のテーブルを使った展示とは、またひと味違った展示が可能。
これも、カウンター前のスペースに置かれて展示用に使われていたブックトラック。
よくあるスチール製のブックトラックと違って、中央に縦の中仕切りがあるためブックエンドが無くても収まりが良く、各段にはA4サイズの本まで収納できるの。木製の暖かみもあり、展示用に使っても違和感が無い。
その他
入り口を入ってすぐ右手には、ブラウジングコーナーがあり、新聞や雑誌が置かれている。
これは、当日分の新聞が綴られた新聞架。
過去の1ヶ月分の新聞は、こちらの棚にまとめて保存される。この家具の屋根の部分では、2人が向かい合わせで新聞を広げて読むことができるようになっている。
西側の窓下に設けられた雑誌架。児童コーナーの絵本架と同じものが雑誌架として使われている。
雑誌架の前には、一人掛けのソファーが4つほど、交互に向きを変えて並べられている。
雑誌架の下段に並べられた雑誌に、直射日光が当たっているのがわかっていただけるだろうか?
こうなってしまうから、折角窓があるのにブラインドを閉めなければならなくなる。残念。
2階に上る階段。階段の処理としては、あんまりうまくないように思える。
階段の下が郷土資料のコーナーになっている。
階段を上ったところに置かれたキャレルデスク。この日は、受験シーズンもほぼ終わり、利用者は少なかったが、試験前などはすぐに満席になるとか。
上の写真の左手にも、このように縦にキャレルデスクが配置されている。
図書館の近く、文化会館の右手の敷地に建てられた神戸雄一の顕彰碑。
神戸雄一は、宮崎県を代表する詩人のひとりで、1902(明治35)年に南那珂郡福島村(現串間市今町)で生まれ、昭和初期の現代詩の担い手として中央詩壇で活躍した後、1944(昭和19)年に宮崎に帰郷。1954(昭和29)年に胃癌のため亡くなった。享年51歳。
この碑は、没後30年の1984(昭和59)年に完成。
碑文は、絶唱「鶴」の一遍で、代表作にもなっている。死期を予感した寂寥感あふれる作品である。