藤井誠君を悼む

 最初は、大学の同期生で作るメーリングリストへの投稿からだった。JR福知山線の脱線事故の犠牲者の中に、彼と同じ名前、年齢の人がいると。
 それから、同期生仲間がつてを頼って確認作業を続け、彼の勤務先までたどり着いて、残念ながら本人であることが確認された。この間、どうか人違いであって欲しいと願いながら、続報を待ち続けた級友達の願いはついに届かなかった。
 私が宮崎に就職したせいもあり、彼とは1984年の卒業以来、長く会うことはなかった。その後会ったのは、2001年11月30日、大学時代に住んでいた池田市石橋で、大学時代の仲間達と飲んだ席に彼もやってきた。
 当時と殆ど変わらぬ容姿に話しぶり。久しぶりの再会に話がはずみ、居酒屋を出た後、5人のメンバーで学生時代を過ごしたキャンパスを訪ね、クラブの部室のあった「ボックス」と呼ばれる建物の前でデジカメで写真を撮った。この夜のことは、同期生向けのWebサイトに写真入りで報告した。そして、その画像は、今も手元にある。
 これが、彼との最後の思い出になった。この時以外の彼のことは、殆ど何も知らない。しかし、同じ時代に同じ場所で青春を過ごした者として、記憶の端々に彼の姿は焼き付いており、その訃報に触れて、鮮やかに蘇る。
 おそらくは人災であろう惨事のために、志半ばで鬼籍に入らねばならなかった彼の無念と、遺された家族の悲しみを思うと、溢れる涙以外に、発すべき言葉を見つけることができない。ただひたすらに、冥福を祈ること、彼の存在をしっかると記憶に留めることしか、今の私にできることはない。どうか安らかに眠りたまえ。合掌。

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