日高大介、今年の3月で55歳になりました。
突然ですが、県庁辞める可能性を求めて、「フリーエージェント宣言」をします!
まだ、辞めると決めた訳ではありませんが、可能なら、来年4月の段階で移籍するなり独立するなりしようかと考えてます。
私に、こういう仕事させてみたい、一緒に働きたいと思われる方がいらっしゃれば、オファーください!
本当は、今年の4月1日に宣言しようかと思ったのですが、エープリルフールと勘違いされそうだし、いろいろと筋を通す必要もあって、今になりました。
以下、長文になりますが、思うところを記したいと思います。
1984年4月に宮崎県庁に入庁し、公務員の枠とか県庁の文化とのギャップに悩みながらも、これまで33年余をなんとか過ごしてきました。
ここに至るまで、公務員が向いていないのではないかと言われたこともありましたし、自分でも悩んで外部の人にいろいろと相談しては慰められ、みたいな経験もしてきました。最近は、「はみ出し公務員」みたいな感じにもなってきていますし。
しかし、今年度に入り、定年まで残り5年を切ることとなって、ちょっと真剣にこれからのことを考えないといけないなと感じております。
家族のこと
最大の問題は、家族と離ればなれになっていることです。
娘が新体操で頂点を目指すことになって、それに引きずられるように家族が関東に移住しましたが、息子が重度の障害を抱えていて、環境を簡単に変えることができなくなったため、そのまま千葉県浦安市に定住することになりました。
娘が選手として活動していた時には、私も6年間、半ば無理を言って東京勤務をさせていただいたのですが、娘の現役引退と軌を一にして宮崎に戻ることとなり、単身赴任生活が5年目となっています。
料理も含め家事全般、無理なくできるので、単身生活でもあまり困ることはないのですが、浦安で息子や娘の生活をを支える妻の負担を考えると、もう少し浦安に帰れる回数を増やしたいですし、このままいつまで別居生活が続くのかという漠然とした不安もあります。
定年後の仕事はどうなるのか?
次の問題は、定年後の仕事をどうするのか、です。
県庁でも65歳までの継続雇用制度はありますので、定年後も再任用という形で働き続けることは可能ですが、収入は現在の半分程度に下がるでしょう。
現在でもかなり負担の大きい単身赴任生活のまま、収入が下がるとなると、かなり辛い未来が予想されます。
しかも、仕事の内容を選ぶことはできませんので、求められるままに、スタッフとして若い人たちと机を並べるということになります。
現在、ある程度のポジションにあれば、定年後の再就職先もいろいろと考えられそうではありますが、残念ながらそこには至っていないので、これからの行き先はある程度予想されますし。
そうなると、県庁を辞めて、新たなキャリアを築くことが可能なのであれば、早めにそうすることが自分のためにもなるでしょうし、同期や後輩達に道を譲ることにもなって、組織的にも良いのではないかと考えるに至りました。
今はまだ、道がはっきりと見えない
しかしながら、現時点で、こっちに行きますと言えるほど明確な道が見えている訳ではなく、その可能性を探る段階でしかありません。
そこで、いったんフリーエージェントとなる宣言をしてみて、何らか道が開けるのであれば、決断してみたいと思うのです。
我が儘で狡いやり方に映るかもしれませんが、そこは平にご容赦いただければと思います。
では、お前にいったい何ができるの?
そうは言っても、お前にいったい何ができるの、どんなスキルがあるの、って思われることでしょう。
一般行政職、いわゆる事務屋として働いてきた公務員ですから、潰しがきかないと思われるのも当然です。
なので、これまで仕事や仕事以外でどんなことやってきたか、参考になりそうなものを振り返ってみたいと思います。
みやざきの本まつり~タウンみやざき
まず、入庁してすぐ、「みやざきの本まつり」というイベントにスタッフとして参加して、戦後に宮崎で出版された書籍や雑誌の目録を作製し、展示するプロジェクトに携わりました。
その成果は、鉱脈社から1985年に出版された『みやざきの戦後出版総目録』に結実しており、そのあとがきを私が書かせていただきました。
その時の鉱脈社との縁がきっかけとなって、新雑誌の企画会議に呼ばれ、私の提案で生まれたのが、今も続く『タウンみやざき』です。初期の頃は、編集部にもよく顔を出してました。
WEBデザイン
1996~1998年度頃に情報システム課(現在の情報政策課)に在籍した頃は、高速のインターネットインフラを県内に敷設する必要を感じて、大学関係者や民間事業者の皆さんと県との協議組織(COMING)を立ち上げ、それが後に、「宮崎情報ハイウェイ」につながって行きました。
また、この頃は、宮崎県庁のWEBサイトを立ち上げる時期とも重なっていたので、エディタを使って一人で700ページくらいのコンテンツを書き上げました。
この時にHTMLを覚え、後にJava ScriptやCSSも使うようになって、簡単なWEBのコーディングはできるようになりました。
この技術を生かして、県庁内では『宮崎県財務規則』や『補助金事務の手引き』などのHTML化に取り組んだほか、2005年から2007年にかけて、民間有志とともに『みやざきの自然』という自然誌(全20巻)のWEBアーカイブ化(http://miyazaki-4zen.seesaa.net/category/5088871-1.html)にプロジェクトリーダーとして取り組みました。
小売店営業、メニュー開発
2007~2010年度は、東京・新宿にある宮崎県のアンテナショップ「新宿みやざき館KONNE」に異動となり、副館長のポジションで労務管理やメディア対応、クレーム処理など、いろいろやりました。
ちょうど、東国原知事の4年間と重なっていて、KONNEが最も忙しかった時代で、必然的にレジ打ち、包装、配送は完璧にこなせるようになり、酒類販売管理者として専ら焼酎の売り場を担当していたので、宮崎産焼酎の知識とセールストークはここで身につけました。
また、軽食コーナーのメニュー開発などもやって、今も続く人気メニューの『釜揚げしらす丼』を登場させました。
企業誘致と若手経営者支援
2011~2012年度は、東京事務所の企業誘致担当として、様々な企業に営業に歩く傍ら、セプテーニホールディングスの野村宗芳副会長(当時)と一緒に、宮崎出身の若手経営者の勉強会を立ち上げました。この会は、私が東京を離れた後も続いていて、今も2ヶ月に1回、会合が開催されています。
FAAVOで頑張っているサーチフィールドの齋藤隆太さんと出会い、勉強会に誘ったのもこの頃でした。
テゲツー!
2013年度に宮崎に戻り、地域プロデューサーとして大活躍中の齋藤潤一さんに誘われて、2014年4月から『宮崎てげてげ通信(テゲツー!)』(http://visit.miyazaki.jp/)にライターとしてジョインし、宮崎で頑張っている人を応援するメディアとしてのコンテンツづくりに励んでいます。
最近は、自分で記事を書く傍ら、他のライターが書いた原稿のチェックや編集も行うようになってきました。
フードアナリスト
また、2015年11月にフードアナリスト4級の資格を取り、2016年8月には3級に昇格し、今年度からは、宮崎フードアナリスト委員会の会長も務めています。
この資格を生かして、フード関係のライティングや商品開発のお手伝いなどもできるようになっています。
ざっと、こんな感じですね。やっぱ変な公務員ですかね?
書き忘れてましたが、宮崎の図書館環境を良くしたくて、大学で図書館の勉強して帰ってきて、当時は図書館で働ける唯一の道だと思った県庁に入ったので、図書館司書の資格も持ってます。
なので、人のために何かを調べる「リサーチ」は、得意です。
料理については、小学校の時から包丁を握っていて、オリジナルレシピもあるので、料理研究家と自称してもいいかなと思ってます。
ということで総括すると、ストロングポイントはWEBと図書館と料理のような気がしますね。
これからの方向性
それで、漠然としたこれからの方向性ですが、「テゲツー!」については、引き続きライターとしてコンテンツの作成や後進のライターの育成を続けて行く必要がありますし、そろそろマネタイズするフェーズに入らないといけないと考えているので、公務員でなくなれば、ある程度の報酬が発生することが予想されます。
ですから、仮にどこかの組織に所属するとしたら、副業を認めていただけることが条件になります。
勤務地については宮崎メインになるだろうなとは思いますが、東京(浦安)との間を行ったり来たりできる仕事ができるといいなと考えています。
アドバイスお待ちしています
フリーエージェント宣言をした以上、以上のようなことを前提にいろいろと考えて、来年4月以降どうするかの結論を12月までに出さねばなりません。
公務員のまま、今のようにテゲツー!で書いてた方がいいんじゃない、という話しもあって、それはそれで正しいのかもしれませんが、それでいいならこんなこと書いてないですよね。
場合によっては、起業するという道もあるかもしれませんが、核となる事業をまだ持ち得ていないので、そこはちょっと躊躇するところです。
ということで、皆様からのいろんなご意見、アドバイス、心よりお待ちしております。
できれば、具体的な仕事のお話をいただけると大変に嬉しいです。
結果として、辞めないという選択になるかもしれませんが、今は、6ヶ月大いに悩んでみようと思っていますので、よろしくお願いいたします。