WBC雑感

決勝戦の途中まで職場のテレビでちらちら視ていたのだが、9回裏に同点に追いつかれた時点で、渋谷に行かなくてはならなくなって、外に出た。
後は、携帯のワンセグで視ていて、10回表の得点シーンは、渋谷から原宿方面に歩く途中の路上だった。
最後はイチローが決めるというのは、ちょっと出来過ぎではないかと思ったが、それもイチローの持つ運というものだろう。

だが、運があるとか無いとかは、果たしてどこで決まるのだろうか?と思う。

結局それは、自分の中で強く思う気持ちがあるかどうかなんではなかろうか。
なんとかしようと強く願えば、それが叶ってしまうことがあるということだ。もちろん、強く願っても叶わないことはあるんだけど、全然願わなかったり、願いが弱かったりするよりも、強く願う方が叶えられる確率が高くなるのだと思う。

強い願いは、周囲にいる他人にも伝わるものだし、それによって誰かが助けてくれることもある。それもまた運なのだ。

強く願うことは、自分を律することだし、それやり遂げるだけの努力を惜しまないということだろう。だからこそ、できることのレベルも上がるのだし。

イチローに限らず、あの場に立っていた誰もが、そんな強い願いや思いを持っていただろうとは思うが、あの場面では、やはりイチローの思いは人一倍強かったに違いない。
それが、あの結果につながったのだと思うのである。

それにしても、メジャーリーガーを揃えたアメリカやベネズエラではなくて、メジャーリーガーもいる日本と韓国が決勝を戦ったのは、何故なのだろうか。

韓国やベネズエラについてはよくわからないけど、少なくとも日本とアメリカでは、そもそも野球に対するメンタリティの違いが大きいと思う。

アメリカでは、試合はgameだし、試合をすることはplayである。それは、結局遊びの延長なのだ。
一方、日本では、野球道という言葉もあるように、野球はひとつの極めるべき道なのである。

「道」がつくもの、例えば柔道とか剣道、茶道をすることを英訳する場合は、決してplay Judoとかplay Kendo、Play Sadoとは言わない。do Judo、do Kendo、do Sadoと言う。それは昔、イギリス人に確認したことがあるので間違いないと思う。

doとplayの差が、結局は準決勝の日米戦での勝利につながっていったのではないだろうかと思うのである。
そして韓国も、同じようなメンタリティで試合に臨んでいるのではないかと思ったりした。

でも、必ずしもdoがplayに常に勝てる訳ではないところが、gameの面白いところなのかもしれない。

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