中と外で ~東国原知事との4年間

 昨日が東国原知事の退任、今日が河野知事の就任だった。
 TwitterでのTLや報道を見ていると、これほど惜しまれて県庁を去る知事も珍しいのではないだろうか。最後まで高い支持率を維持し続けたし。

 思い起こせば4年前は、東国原知事の就任を複雑な思いで迎えていた。
 何しろ、その前の選挙戦の最中は、当初、泡沫候補扱いだった彼のことを「あんなのが知事になったら俺は県庁辞める。」と公言していたのだから。
 もちろん、逆単身赴任状態が4年目を迎えていて、経済的に非常に厳しい状況にあったから、本当に辞めて東京に出ることを考えていた時期であったし、東京で職を世話してくれる人もいたので、東京への異動がなければ辞めるつもりでいたのも事実なんだけど。

 で、選挙の読みは完全に外れて、宮崎県民は東国原知事に県政を託すという選択肢をした訳だ。
 それだけ、外のみんな(もちろん内側でも)が変革を求めていたということだろう。

 私はと言うと、その時既に結構長く県庁の中にいて、組織の変革の必要性は強く感じていたし、特に外と繋がって仕事を進めていくために、ネットワークを使って仕事をすることの重要性を説き、自分なりに努力をしてはいた。
 しかし、その努力は、時に徒手空拳のあがきのようにも思えることがあったし、後ろから刺されるような扱いを受けたこともある。
 だから、職を辞して家族の元に行くという選択肢を真剣に考えていたのだ。
 ただ、それまで何度も組織と自分の立ち位置に悩んで折れそうになった時に、「あなたみたいな人も中にいないとダメだ。」と言ってくれる外の人がいたことが、続けられることの支えになっていたし、今もその言葉に支えられている。

 東国原知事の就任から1ヶ月余りして、私は東京への異動を告げられた。当時の職場はまだ2年目で、異動のタイミングではなかったと思うけど、辞めると公言していた私を、辞めさせない方がいいと思ってくれた人も中にいたということだろうと感謝している。

 そして、4月に着任したのが、宮崎県のアンテナショップ「新宿みやざき館KONNE」。
 県庁から派遣という形で、中に籍はあるけれども組織の外に出ることになり、それまでのメールアドレスは使えず、中のネットワークから切り離されて職員のための掲示板も読めず、辞めてやると言う公言は、ちょっとだけ果たされることとなった訳だ。

 着任した1日目から、KONNEは凄い状態だった。
 就任直後に発生した鳥インフルエンザの風評被害を防ぐために積極的にトップセールスに打って出た東国原知事を連日マスコミが追いかけたことで、宮崎ブームが巻き起こっており、KONNEにもお客様が詰めかけていた。
 あの頃は、施設のキャパシティを超える入店があって、レジ待ちの列が店内の通路を1周するほどだったし、鳥炭火焼は飛ぶように売れていた。一人で10個も20個もカゴに入れるお客様が続出で、開店から2時間ほどで在庫が無くなる状態だった。
 変化が急だったので、何もかもが足りなかった。スタッフの数が足りず、右も左もわからない状態の私も初日からレジに立った。
 後から聞けば、同じ立場の派遣職員で、レジに入った人はいなかったらしいけど、そんなことを言っていられる状態ではとてもなかった。
 まあ、お陰で今はレジ周りは完璧にこなせるし、商品の包装も丸瓶までできるようになった。配送の段ボール作りもお手の物だ。この分野なら転職してもたぶん問題なくやっていける。

 スタッフもそれだけのお客様を捌くことに不慣れだったし、急遽採用したパート職員も多かったので、行き届かないことが多々あって、たくさんのお客様にお叱りを受けた。商品に関するクレームもたくさんあった。
 責任者として現場で受けきれないクレームを処理することも私の役目だったので、ひたすら頭を下げ続けた。
 中には、理不尽とも思えるクレームもあったし、面前で罵倒されることもあったけど、ひたすらに耐えるしかなかった。
 打たれ弱かったらストレスでどうにかなっていたかもしれないが、ストレスを貯めない性格でよかったと思う。

 そういうスタートから4年、東国原知事とともに走り続けた。ただし、県庁の中ではなく外でだけど。
 おかげで宮崎の物産は知れ渡り、売れ続けた。さすがに就任1年目のようにはいかないが、完熟マンゴー、日向夏、完熟きんかん「たまたま」、チーズ饅頭、冷や汁、チキン南蛮などなど、宮崎の食べ物の認知は広がり、肉巻きおにぎりのような新たなヒットもあった。
 そもそも、宮崎県のイメージそのものが、マイナスからプラスに転じたことは何より大きいと思う。関東で宮城県と間違えられていた宮崎県は、既に過去のものだ。
 広報担当として、マスコミの取材もたくさん受けた。TBSのオールスター感謝祭なんて、KONNEとして連続8回、私自身も連続7回も出店して、毎回、知事の後ろに映り込んだ。
 「ちい散歩」の地井武男さん、EXILEのリーダーHIROさん、カリスマ・モデルの益若つばささんなんかとも共演できちゃったりなんかして、得難い経験をさせていただいた。

 さて、この4年間を県庁の外、宮崎の外から見てきて、率直に良い4年間だったと言えると思う。
 宮崎がこれほど輝いたのは、あの新婚旅行ブーム以来ではないかと思うし、県民ひとりひとりの自信や政治に対する考え方は大きく変わった。
 東国原知事(既に前知事だが)には、他の大勢の皆さんと同じように、「ありがとうございました」と言おう。

 しかし、宮崎が今の位置にあるのは、全てが知事のお陰と言うつもりはない。
 私達が今、KONNEで売らせていただいている日向夏や完熟きんかん、完熟マンゴーにしても、それまで地道に育て上げ、販路を作り、売り込んできた人びとの努力があればこそ、稀代のアピール力を持つ知事の誕生で一気に花開いたのだ。
 知事がよく「県民総力戦」という言葉を使われてきたが、様々な分野で宮崎のために働いてきた人達がいたからこそ、今の宮崎がある。

 そして、東国原知事にしても変えられなかったもの、変わらなかったものもたくさんあるだろう。
 変えるべきものは、新しい担い手によって変えなければならない。その担い手は、河野新知事だけではなく、これまでと同じように県民ひとりひとりだ。

 船は進む。大海の中を。
 決して沈めることができない船が大海を行く。
 晴れる日もあれば、嵐の日もあるだろう。
 これから、本当の意味で「県民総力戦」で船を進めなければならない。

 その船の中に、私は戻ることがあるのだろうか?。
 外に4年もいることは組織としては珍しい。実生活でも、同じ所に4年もいる経験は、実家と大学時代しかない。
 なので、4年も外にいて、今更中に戻れるのかという心配もあったりする。

 それでも私は、私なりに宮崎のために生きようと思う。
 大学を卒業して、宮崎のために(特に宮崎の図書館のために)役立ちたくて宮崎に戻った初心を忘れることなく、今までの生き方を変えることなく。

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