宮崎出身の画家で、約100年前に台湾に渡り、台湾美術界に多大な貢献をなした塩月桃甫。
そのドキュメンタリー映画「塩月桃甫」が完成して、各地で上映が行われることになり、東京(関東)では、6月6日(日)に大手町サンケイプラザで上映会が行われるということで、出かけることにしました。
本来、この日は宮崎出張の予定が入っていて、観に行けないなと思っていたのですが、コロナ禍の影響で出張がキャンセルになって行けることになり、問い合わせ先の一般社団法人台湾協会にメールしてみたところ、既に13時からの1回目は満席でしたが、15時からの2回目の席が確保できました。
脚本・監督は、蝶の画家としても有名な、延岡出身の気鋭のアーティスト小松孝英さん。
以前、日南市飫肥で開催されたDENKEN WEEKでお目にかかったことがありますが、当日は、会場にもお見えになっていました。
小松さんは、台湾で桃甫の名前を聞く機会が多く関心を持っていたところに、宮崎県児湯郡の骨董屋で桃甫の描いた台湾原住民族(先住民)の油絵(後に「ロボ」というタイトルと判明)に出会い、桃甫のことを調べるようになったとのこと。
桃甫が台湾に渡ったのは、1921(大正10)年。日本では大正デモクラシーが盛んになる時代ですが、そこから1945(昭和20)年の敗戦まで、桃甫は台湾を舞台に絵を描きつつ、美術教育に携わりました。
小松さんの関心は、台湾も次第に日本の戦時体制に組み込まれ皇民化教育が進む中で、画家として(あるいは教育者として)、どのように自らの「自由」を維持できたのかという点にあり、台湾や日本で桃甫を知るたくさんの人々にインタビューを重ねて行きます。
しかし、桃甫が訪台して既に100年。当時を直接知る人が次第に少なくなる中で、このドキュメンタリーの撮影は、本当に最後のチャンスだった気がします。
私も桃甫の絵は宮崎県立図書館で鑑賞したことがあり、その存在は知っていましたが、今回このドキュメンタリーを観ることで、初めて知ることがたくさんありました。
宮崎ガス(株)の塩月光夫会長が桃甫のお孫さんだったというのも驚き。
ところで、中村地平が宮崎県立図書館長だった時代、当時の図書館は昭和26(1951)年5月に増築工事が完了し、「花と絵のある図書館」と呼ばれたのですが、その会議室には塩月桃甫の絵が飾られていたという記録があります(その絵は、1959(昭和34)年に起きた県立図書館の火災で焼失したと思われます)。
その記録を見た時には、単に桃甫が宮崎在住の画家だったからだろうと軽く考えていたのですが、このドキュメンタリーで、地平が桃甫の台湾時代の教え子であり、桃甫が敗戦後に台湾から引き揚げてきて赤貧の生活を送っていた時代に、地平が支援の手を差し伸べていたということを知り、桃甫の絵が県立図書館にあった意味の重さが増した気がしました。
今後、宮崎や福岡で上映会が開催される予定(スケジュールは公式サイトで)ですので、たくさんの方に見ていただくのはもちろん、この映画自体を宮崎県立図書館でアーカイブして、桃甫の収蔵作品とともに展示して欲しいなと思う次第です。
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