児玉郁夫先生を悼む

 今日、元宮崎県教育長の児玉郁夫先生の訃報が届いた。

 児玉先生は、1984(昭和59)年に私が宮崎県庁に採用され最初に配属された学校教育課で課長をされていた、私にとって初めての上司に当たる方である。

 教育者としての経歴や功績について語れるほどのおつきあいではないが、豪放磊落なお人柄と言うか、普段は人なつこい笑顔で周囲と接しておられた印象が強い。
 下手な駆け引きを嫌い、ストレートに人の懐に入ってこられる、そんな方だったので、先生を慕う教え子や部下も多かったのではないだろうか。

 私は学校教育課で最初の3年を勤めた後、延岡市にある東臼杵福祉事務所に異動になったが、その間に先生は、教育次長、教育長とステップアップされていた。

 もう20年以上も前のことで時効になっているだろうから書いても構わないだろうが、東臼杵事務所で3年目の冬のことだった。
 たまたま宮崎市に出張があったので、昼休みに古巣の学校教育課に挨拶に立ち寄ったら、たまたま当時の児玉教育長が学校教育課長の席でくつろいでおられた。
 ご挨拶をすると、
「(福祉事務所に異動して)何年になるのか?」
と問われたので、
「3年目になります。そろそろ異動ですので、よろしくお願いします。」
とお答えした。すると、
「どうしたいのか?」
と聞かれたので、
「図書館に異動したいのですが…。」
とお答えしたところ、
「本当にいいのか?」
と重ねて問われたので、
「はい、よろしくお願いします。」
と答えた。すると、
「わかった。」
とおっしゃって、その場で誰かに電話をかけられた。誰だったのか定かではないが、おそらく当時の人事課の課長ではなかったのかと思う。細かいことは記憶の底に沈んでしまったが、
「日高君というのを図書館に欲しい。」
ということを電話でおっしゃっていたように記憶している。そして、受話器を置くと、
「でもね日高君、3年だから。君みたいな人材を図書館でそれ以上預かる訳にはいかないから。」
とおっしゃった。
 君みたいなというのは、大卒の一般行政職で入庁した職員という意味だと思うのだが、確かに一般行政職の2回目の異動先としては、当時も今もあまり例のないことではある。
 その場は、
「ありがとうございます。頑張ります。」
とお答えして延岡の事務所に戻った。
 実際に3月末に異動の内示が出るまでの間、本当に図書館に異動できるのかどうか半信半疑(実際には8信2疑くらい)だったが、実際に当時の所長に呼ばれて異動先を告げられた時に、児玉先生の偉大さを思って身震いしたものだった。

 本来、教育長の職にある方が、まだぺーぺーの若輩職員の異動に口を出すなんてことは、滅多なことではあるはずがないが、児玉先生は私の図書館への強い思いを理解していただいていたし、例え図書館に異動したとしても、その間にスポイルされるようなことにはならないであろうという信頼もしていただいていたのだと思う。
 先生の人を見る目の確かさは、永年の教育現場での経験から培われたものだろうし、その期待に違わぬように働くことが、私に出来る唯一の恩返しだろうと思って、図書館の3年間、私なりに精一杯に宮崎の図書館のために奔走した。

 それ以降、先生はリタイアされ、私も図書館から知事部局に異動して次第に疎遠になり、言葉を交わす機会も得られぬままになって、今日の訃報に触れることとなった。

 図書館で働きたくて宮崎に戻り県庁で職を得た私にとって、あの県立図書館の3年間だけが唯一の現場経験なのだが、何によりも現場に身を置けたことは貴重であり、知識や人脈など、今の私のバックボーンの一部になっている。

 最初の上司が児玉先生ではなく、あの日に児玉教育長があの席に座っていなければ、私の今は無いかもしれない。

 児玉先生、本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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