『船に乗れ! III 合奏協奏曲』

 今回の通勤電車読書は、藤谷治著「船に乗れ! III 合奏協奏曲」(JIVE)。シリーズ最終巻である。

 第2巻の「独奏」で恋人の南枝里子を失い、そのショックと混乱の中で敬愛する金窪先生から辱めを受けたと勝手に思いこみ、先生を卑劣な手段で退職に追い込んだ主人公の津島サトルが、この巻では、自分の音楽家としての才能の限界をはっきりと意識し、チェロを捨てて生きることを決意し、新しい道を歩み現代に至るまでの過程が描かれる。

 その中で、高校3年になったサトルは、文化祭のミニ・コンサートで同じ学年の仲間達と共にバッハの『ブランデンブルグ協奏曲第五番』を演奏する。これが、彼が演奏することになる最初で最後の合奏協奏曲である。
 合奏協奏曲は、バロック時代の代表的な音楽形式の一つで、独奏楽器群(コンチェルティーノ concertino)とオーケストラの総奏(リピエーノ ripieno)に分かれ、2群が交代しながら演奏する楽曲であり、『ブランデンブルグ協奏曲第五番』にはフルート、ヴァイオリン、チェンバロの独奏楽器がある。つまり、主役が入れ替わりつつひとつの音楽を作り上げていくという訳だ。

 この『ブランデンブルグ協奏曲第五番』を演奏するステージで、サトルは、別れた南枝里子とつかの間の再会を果たし、仲間達との演奏は、饗宴となり、乱舞となって満足のうちに終了する。
 それは、かつて自分の才能に自惚れ、ニーチェを愛し傲慢で不遜だったサトルが、一人一人の異なる才能に気付き、その生き方を肯定していく過程と重なる。音楽家としては成長できなかったサトルが、それでも人間として成長していく過程なのだ。

 本書の巻末、金窪先生に謝罪に行ったサトルは、先生から「船に乗れ!」と題する一文を贈られる。
 それは、「自分とは、道徳的に正反対のところにいる人間、まったく相容れない、許しえない人間、そんな人間を、許さず、同情せず、しかしそんな人を照らし、暖める、太陽のような哲学」があるという教え、「その人だけ」の哲学、「その人だけ」の道徳を発見せよという教えだった。
 全ての人間がそれぞれの船に乗っている。そして、それぞれどこかに向かって進んでいる。様々に揺れながら。

 それにしても、シリーズ3巻を通して、それぞれの演奏の場面が、なんと生き生きとして臨場感に溢れていることだろう。描かれる音楽の殆どを、実は私は聞いたことがないのだけれど、それでも読んでいると、実際にバイオリニストやチェリストが引く弓の動きが見え、打楽器の鼓動が、金管楽器の響きが聞こえるようだ。文章を読んでいるだけで、音が舞っているように感じられる。
 そんな幸せを味わわせてくれたことだけでも、このシリーズを読む価値があった。☆☆☆☆☆。

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