『船に乗れ! II 独奏』

『船に乗れ!II』書影

今回の通勤電車内読書は、藤谷治著「船に乗れ! II 独奏」(ジャイブ)

 第1巻の「合奏と協奏」では、主人公津島サトルの成長が、彼を取り巻く家族や友人、先生達との関わりの中で描かれるのだが、今回は「独奏」というサブタイトルが、なんとなく不穏な展開を予想させる。
 そもそも、この物語自体が、冒頭から主人公サトルの回想という形で一人称で語られ、端々に現れる後悔に溢れ諦観したような語り口が、単なる青春の輝かしい日々を活写しただけの青春小説とは違うという雰囲気を漂わせてはいるのだが。
 そしてこの第2巻では、晴れ渡る空に突然現れた暗雲が、やがて暴風雨となるがごとく、思いもかけない出来事がサトルを翻弄し、それによってサトルが傷つき、そして人を傷つける、何ともやりきれない事件が描かれる。
 そして、第1巻でもそうであったように、音楽と哲学がこの物語を見事に彩り、そもそも音楽とは何なのか、人が生きていくとはどういうことなのかという問題を読者の前につきつけ、著者なりの回答を提示して行くのである。

 例えば、サトルが短期留学(この留学が、後にサトルを大きく揺さぶる暗雲の序章となるのだが)したドイツ・ハイデルベルグで、教えを受けたメッツナー先生に言われる一言。

「あなたは上達しましたね。弦が鳴っているのではなく、楽器が鳴っています。あなたは私のいう通りに演奏しました。その先をどうしますか?。それはあなたなの音楽です。私はあなたの音楽を聴くことのできなかったことを、大変残念です」

 そして、先生の弾く『ドン・キホーテ』第5変奏曲を聴きながら、サトルは次のように感じる。

演奏技術や音響が、すぐれているかどうかなんてことは問題じゃない。はっきりしているのは、僕が、「チェロを弾く」ことと、先生が実現して見せた「音楽の演奏」のあいだには、明らかな隔たりがあるということだった。指が動く、背筋が伸びる。音程を把握する。リズムを意識する。そんなことを僕は「音楽の演奏」だと思っていた。でもそれはただのスタートラインなのだ。その先にあるものが「演奏」だと、先生は演奏そのもので教えていた。それは僕に、残酷なくらいしっかりと伝わってきたけれど、「その先」というのが何なのか、何をすれば「その先」を得られるのか、僕にはまったく見えなかった。

 大海を知らず井戸の中でちょっと自惚れていた若者が、初めて打ちのめされる場面がこうだ。

 また、1巻目ではサトルを導いてくれた公民の金窪先生が、恋人(であったはず)の南枝里子を失って自暴自棄になったサトルの浅はかさによって教師の職を失うこととなり、その最後の授業で『ソクラテスの最後の弁明』を引きながら、死刑を前にしたソクラテスと職を失う自分を重ねながら、人間としての身の処し方を生徒達(それは専らサトルに対してなのだが)に語る場面。
 冷静な語り口とは裏腹に、その奥底でふつふつと沸き立つ怒りが、ビリビリと伝わってくる。

 読後になおざわざわと落ち着かない感じを残す、この素晴らしいけれども哀しくやるせない青春賦が、果たしてこれからどのように展開して行くのか。結末は決してハッピーエンドではないであろう事が予想されるけれど、それでいて続きが楽しみなのは、やはりこの作者の力量のなせる技だろう。☆☆☆☆☆。

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