『ブラッディ・カンザス』

 とうとう4月はこの徒然日記に一行も書けなかったな(反省)。引っ越し後の片づけで余裕がなかったというのもあるし、母艦にしているデスクトップPCの設置場所が、それまでの隔離された納戸からダイニングに移動してしまって、なんとなくPCの前に座りづらくなってしまったというのもある。

それから、新しい職場になって通勤時間帯が朝のラッシュ時間帯のど真ん中になり、電車の中での読書時間が激減してしまったのと、4月は歓迎会や何やらで飲む機会が増えて、帰りの電車でも読書どころではなかったこともある。

加えて、拠り所にしていた浦安市立図書館が、3月11日の大震災以降休館になってしまって、立ち寄れなくなってしまったというのも大きい。浦安市は液状化の被害が深刻で、市役所全体がライフラインの復旧に追われていたので、図書館の再開も遅れたのだろうと思う。もちろん、図書館自体も書架からの蔵書の落下など被害があったらしいが、建物などには大きな被害はなかったらしく、4月25日(月)から午後5時までに開館時間を短縮しつつも営業を再開してくれている。

そういう訳で、久しぶりに暦どおりに休めるGWの中、浦安市立図書館中央館に本を読みに行ってきた。そこで手に取ったのが、サラ・パレツキー著「ブラッディ・カンザス」(ハヤカワ・ノヴェルズ)

V・I・ウォショースキーの出ない彼女の作品は珍しい。昨年読んだ自伝的エッセイ「沈黙の時代に書くということ」にすら、ウォショースキーの名は登場するのだから。解説では、1988年の「ゴースト・カントリー」以来2作目らしい。

この作品は、作者のサラ・パレツキーが幼少時代を過ごしたカンザスの田舎町で隣あうグルリエ家とシャーペン家、フリーマントル家を舞台にして、グルリエ家の喪失と再生の物語を縦糸にし、奴隷解放運動の歴史、宗教的な対立(?)の問題、現代アメリカでは避けて通れない「正義のための戦争」との関わりなどを横糸に織り上げられる重厚な物語である。
物語のモチーフには、作者パレツキー自身の経験が反映されているというが、主人公の少女ルルの成長箪とも読めるこの物語は、その重層さにおいていかにもパレツキーらしいし、過去に死んだ者を除いて誰も殺されることなく(従軍してイラクで死ぬことになるルルの兄エティエンヌは除く)、たとえ悪人ぽく描かれている登場人物にしてもその存在理由を誰かに語らせて赦してしまう優しさがまたパレツキーらしい。☆☆☆☆1/2。

ところで、本作の邦題は「ブラッディ・カンザス」で、「血塗られた」とか「血まみれの」おどろおどろしいカンザスを想像してしまうのだが、原題は”BLEEDONG KANSAS”なので、ちょっとニュアンスが違う。
確かに”BLEEDING”は「出血している」「血を流す」という意を持つので、全く違うということではないのだけれど、様々な対立の中で傷つき、傷つけ合い、血を流しながらも懸命に生きていくカンザスの人々の姿を表現しようとしているのではないだろうか。
ただ、「ブリーディング・カンザス」とすれば邦題としてはわかりづらいと思うし、タイトルつけるのに訳者と出版社の担当がかなり苦労したのだろうなと思う次第。

そういう訳で、再び図書館が使えるようになって、こういう良作にも出会えて本当に良かった。
この日記は、浦安市立図書館中央館のインターネット接続ができる閲覧席にモバイルPCを持ち込んで書いている。
休日の午後、閲覧席はほぼ埋まっていて、利用者がそれぞれに勉強したりしている。こういう平和な風景が、早く東北の被災地にも戻るといいなと願いつつ、そろそろ席を立つとしよう。そして、通勤電車の中で読む文庫本を借りて帰ろう。

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