『論語の新しい読み方』

『論語の新しい読み方』書影

 今回の通勤電車内読書は、宮崎市定・著/礪波護・編「論語の新しい読み方」(岩波現代文庫)
 最近の私にしては珍しい学術系で、しかも岩波の文庫なんて実に久しぶり。いつ以来だろうと悩むくらい。実は、『本の雑誌』2010年9月号で金子邦彦氏が「紀元前480年のTwitter」というタイトルで本書について書評していて、なんとなく惹かれるものがあって楽天に発注かけたのであった。

 届いて奥付見たら新刊でも何でもなくて、1996年5月に刊行で文庫化の第1刷が2000年7月と、10年以上前のものなのだ。まあ、論語自体が2500年くらい前のものなので、たかだか10年なんて気にするほどのものでもないのだが。

 そんな書を金子氏がなぜ今書評に取り上げたかと言うと、それはまあ、タイトルにあるとおりTwitterの隆盛にあるのだろう。論語は、「原文では三十文字程度、日本語風に読んでみたところでその多くはちゃんと140文字以内、というようにTwitterの規則を遵守している。」ということであり、「多くは弟子に各場面場面でつぶやいたものであり、もともと書物として著されたものではないから、どの状況で話したことかに依存している。」という訳である。

 東洋史研究の大家である著者の宮崎氏の言う「新しい読み方」とは、後世に政治的な理由から聖人の教典として崇め奉られて、時として矛盾したり強引だったりする読み方をされている論語を、その成立の時点に立ち返って、礼を教える市井の教育者の孔子が、就職を希望する学徒である弟子達に語った言葉を、リズムや文体を吟味しそのままに読もうとする姿勢のことである。
 その読み方が果たして学術的に正しいのかどうかは、浅学な私などにはわかる術もないが、論説は理路整然として、なるほどと思う所は多かった。高校時代にざっと眼をとおしただけの論語を、もう一度読み直してみてもいいかなと思わせるには十分である。「四十而不惑 五十而知天命」私もそろそろ天命を知る年に近づいている。☆☆☆

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