今回の通勤電車内読書は、ボストン・テラン著『暴力の教義』(新潮文庫)。
リンカーンがフォード劇場で撃たれた日(1865年4月15日)に「賭博と売春宿と安酒に溺れてうごめく寄生虫の巣窟のような町」で生まれたローボーンと、ユリシーズ・S・グラントが死んだ日(1885年7月23日)に「リオ・グランデ川沿いに、むさ苦しい日干し煉瓦の家が建ち並ぶ居住区(バリオ)」で生まれたジョン・ルルド。
ともに父を知らず、母を早くに亡くし、孤独にたくましく生き抜いてきた過去を持つが、実はルルドはローボーンが捨てた息子だった。
お互いを知らぬまま、それぞれ殺人者と合衆国捜査局特別捜査官としてテキサスで偶然に出会い、潜入捜査のために一緒に革命前夜のメキシコに旅することとなった二人の、波乱に満ちたロードノベル。
前作の『音もなく少女は』が非常に良かっただけに期待したのだが、残念ながら本作の出来はいまいち。どうもテランという作家、出来不出来の波が大きいようだ。
ハードボイルにつきものの「喪失と再生」という枠組みに父子の物語を織り込もうとしているのだろうが、テランならではな暴力性が、その物語に邪魔されてどうにも中途半端。
かと言って、殺人者と捜査官という役割では喪失していた父子関係の再生という流れにもうまく乗れず、どうにも隔靴掻痒の感がある。
物語後半、メキシコ革命と合衆国政府との陰謀めいた関わりが軸となり、そこをもっと膨らますと面白くなるのではないかとも思うのだが、なんとなく尻すぼみに終わってしまった。
本作、映画化も予定されているように、素材としては悪くないのだが、ボリュームと味付けで折角の素材を生かし切れていないのが残念。☆☆1/2。